【中学歴史】永仁の徳政令の内容と両統迭立をわかりやすく解説

鎌倉時代 中学歴史
鎌倉時代
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このコンテンツを読むと、以下の内容が理解できます。

  1. 日本を襲った元寇を切り抜けた後の鎌倉幕府や御家人の様子について
  2. 鎌倉時代末期の皇位継承についてのトラブルについて

平氏政権を倒し、源頼朝によって鎌倉に幕府が開かれ、承久の乱(承久の変)を経て幕府の力は執権の北条氏を中心にさらに強まりました。

鎌倉時代の全体像をわかりやすく解説

やがて、モンゴル系の中国(チャイナ)の王朝であった元王朝が日本に来襲したものの、時の執権であった8代目の北条時宗が見事に撃退しました。

元寇についてわかりやすく解説してみました

本稿は、元寇以後の鎌倉時代の様子について見ていきたいと思います。

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元寇後の鎌倉幕府の様子

元寇後の日本の影響をザッと見てみましょう。

  1. 北条氏の力がさらに強まりました。元の来襲に備えて、御家人ではない武士を動員したり、北条氏一門の力を結集したからです。その結果、北条氏に仕える家臣も御家人を凌ぐほどの力を付けました。
  2. 御家人が困窮します。封建制度が維持できるのは土地があるからです(御恩と奉公に基づく封建制度についての解説はこちら)。御家人によって元・高麗軍を追っ払うことは成功しましたが、新しい土地が手に入りません。新しい土地が手に入るから幕府は恩賞を出すことができるのですが、幕府にはそれができません。恩賞が出せないので幕府に対する不信感が高まります。
  3. 西国の警戒態勢(異国警固番役)は強化されっぱなしです。元がいつ来襲するとも限らないからです。警備には当然費用が発生します。費用は警備している武士が出しています。ですから、ここでも武士の困窮の問題が起こります。

北条氏の力が強まる – 得宗専制政治

元寇を乗り切るためには、御家人の意志統一をして志気をあげなければなりません。鎌倉幕府にはこの時代にも征夷大将軍はいましたが、政治の実権は執権である北条氏が握っていました。

国難である元寇に対してもやはり北条氏が中心となってこれに立ち向かいました。北条氏一門に対して重要な役割を与えていった方が合理的です。元寇は九州の博多湾にやってきました。ですから、日本海側や九州地方の守りが必要になります。西暦1274年(文永11年)の文永の役の後にはこれらの地域の守護を北条氏一門に置き換えます。さらに、西暦1281年(弘安4年)の弘安の役が終わった後には、鎮西奉行に加えて新たに鎮西探題を設置し、これも北条氏一門が就任しました。

鎌倉幕府の組織(承久の乱後)
鎌倉幕府の組織図

幕府の力は、鎌倉時代が始まった当初は東国が中心でしたが、承久の乱(承久の変)の後に西国に拡がり、元寇が終わると非御家人にまで影響力が及ぶようになりました。非御家人も元寇に動員されたからです。

北条氏の力が強まると、北条氏の本家の当主の力がさらに強まることは言うまでもありません。北条氏の本家の当主のことを得宗とくそうと言います。得宗が大きな力を持つようになりました。すると、得宗に仕える家臣たちの地位も向上していきます。彼らのことを御内人みうちびとと言います。

北条得宗家や御内人の力が強くなると、相対的に鎌倉幕府に仕えていた御家人の力は弱くなります。そもそも鎌倉幕府は、源氏将軍家が滅亡した後は御家人による連合政権だという建前でした。北条氏も御家人のうちの一人でしかありませんでした。ところが北条氏の力だけが強くなると、御家人としては面白くありません。不満がたまってきます。実際に、西暦1285年(弘安8年)の11月に霜月騒動という政変が起こっています(くわしくは省きます)。

北条氏得宗による専制政治のことを得宗専制政治とくそうせんせいせいじと呼びます。なお、中学校の教科書には出てきません。

御家人が貧しくなる – 永仁の徳政令を中心に…

元寇の影響

御家人の不満は北条氏に対する嫉妬だけが理由ではありません。

元寇は外国の軍隊を追っ払うことが目的でした。我が国日本は見事に元を撃退して勝利を収めましたが、新たに手に入れた領地はありません。将軍と御家人の絆である御恩と奉公という関係は土地を前提としているものです。これを封建制度と呼びました(御恩と奉公に基づく封建制度についての解説)。

戦いに勝っても幕府からは恩賞が出せません。

さらに、元はまたいつ攻めてくるかわかりませんでした。そのため警備が必要です。御家人は警備にかり出されることになります。出費がかさみます。

御家人にとって元寇の影響はとても大きなもので、生活はとても苦しくなりました。

分割相続の繰り返し

鎌倉時代の武士たちは、一族のリーダーである惣領そうりょう庶子しょしを従える体制でした。これを惣領体制そうりょうたいせいと言います。

鎌倉時代の武士の生活をわかりやすく解説

また、鎌倉時代の武士たちは分割相続を行っていました。相続というのは人が亡くなった時に財産などを受け継ぐことを言います。分割相続は、ある人が亡くなった時に1人が全てを受け継ぐのではなく、複数の相続人が少しずつ財産を受け継いでいくのです。これは、土地が増えていかない限り、時代が下るにつれてもらえる土地の面積は小さくなることを意味します。

承久の乱(承久の変)以降、確かに政変などは何度もありました。源平合戦や承久の乱(承久の変)の後のように御家人の敵にいた武士や貴族から土地がたくさん手に入ることはありません。ましてや元寇です。

もらえる土地が減ると生活が貧しくなるのは当然のことです。

貨幣経済の進展

中学校の教科書にはあまり載っていませんが、実は鎌倉時代末期の武士たちの生活が苦しくなる原因の1つが貨幣経済の進展です。

貨幣経済の発展は中国(チャイナ)の宋の時代に活発になります。宋王朝の前の唐王朝の末期から中国(チャイナ)でも公地公民制が崩れると都市の中で自由な商業活動が行われるようになりました。これを支えるためには貨幣をたくさん作る必要があり、北宋の時代には紙幣が造られるようになりました。これまでは中国(チャイナ)では銅銭が流通していたのが紙幣に取って代わるようになり(銅銭は補助貨幣的な立ち位置になる)、余った銅銭が日本に流入するようになりました(日宋貿易の解説はこちら)。

鎌倉時代になると宋王朝との正式な国交はなかったものの、多くの日本人たちが宋にわたっていました。その代表的な例として、禅僧があげられます。彼らは宋で仏教を学ぶために宋へ渡りますが、帰国する際に多くの銅銭を持ち帰ります。これが日本で流通することになります。

貨幣経済が地方にまで浸透すると、御家人もまた貨幣を必要とするようになります。これまでは物々交換でよかったものが、貨幣経済が進展すると、物の購入に貨幣が必要になります。また、年貢を現物で納めるのではなくお金で納めるパターンも表れます。領民から納められる現物(米など)を商人の力を借りて換金して貨幣にするケースが多くなりました。

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永仁の徳政令

制定の背景

先ほども述べたように、御家人たちは貨幣を必要としていました。貨幣を手に入れるために、土地を売買したり質に入れたりするようになりました。質入れというのは、借金をするときに返済を保証するものとして主に物品を預け、もしも返済期日までに返済ができなかったときは返済義務はなくなるものの預けた物品等は貸した側の物にできる、返済期日までに返済ができたら預けた物品等が戻ってくるという仕組みを言います。質入れはお金が急に必要になったときにとても有効です。御家人が手を出しそうな感じですね。しかし御家人は上で見たとおり生活に困窮しているので簡単にお金を返すことができません。だからますます生活は苦しくなります。

これを見ていた鎌倉幕府は、そもそも土地の売買や質入れを行うこと自体がよろしくないのではないかと考えました。西暦1297年(永仁5年)に永仁の徳政令を出しました。

内容

  1. 質入れや売却した土地について、御家人が買い取った土地については、20年以上経過している場合は元の地主はこれを取り返してはいけない(御成敗式目第8条の内容そのまま)。非御家人や一般人が買い取った土地については、売却または質入れした年限にかかわりなく、元の地主はこれを無償で取り返してもよい。
  2. 一度判決の出た裁判について、再び訴え直すことはできない(越訴の禁止という)。
  3. 土地をみだりに質に入れてお金を借りたりこれを返さずに失ってしまったりあるいは売却してしまうと御家人の生活が困窮することになる。だから、今後は質入れや売却を禁止する

影響

鎌倉幕府が言っていることは確かにもっともな話です。

しかし御家人に対して「質入れや売却を禁止する」と言ってしまったらどうなるのでしょうか?御家人たちは生活が困窮しているのに借金ができなくなってしまいます。

またお金を貸す商人の立場に立って考えてみましょう。商人は御家人ではありませんから、質入れされた土地はいつでも御家人から取り返されてしまいます。安心してお金を貸したいと思うのでしょうか?御家人の側からすればお金が借りられなくなってしまいます。御家人はその場で使いたいお金がほしいからお金を借りたいのにお金が借りられなくなったら生活は困窮します。

永仁の徳政令は御家人を混乱させる結果となってしまったのです。永仁の徳政令が発布された翌年、上でいうところの1.を除いて撤回されることになりました。

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両統迭立 – 皇位継承に鎌倉幕府が関与する

承久の乱(承久の変)の後に皇位に就いた第86代の後堀河ごほりかわ天皇の後、後堀河天皇の皇子が第87代の四条しじょう天皇として即位あそばしました。しかし、不慮の事故によりわずか12歳で崩御してしまいます。その後を継いだのが、第88代の後嵯峨ごさが天皇でした。後嵯峨天皇は、承久の乱(承久の変)の後に土佐に流された土御門つちみかど天皇の皇子です。鎌倉幕府の提案により即位しました。

後嵯峨天皇は後深草天皇に皇位を譲渡しました。後嵯峨天皇は上皇となりました。その後、後嵯峨天皇は後深草天皇に譲位を迫り、同じく第3子の皇子を第89代亀山天皇に践祚せんそさせます。後嵯峨上皇は後深草天皇よりも亀山天皇の方を可愛がっていたからです。しかしここで問題が出てきます。次の天皇は後深草天皇の系統が継ぐべきなのか?それとも亀山天皇の系統が継ぐべきなのか?という問題です。これは重大な問題です。この点について、後嵯峨上皇は答えを出さないまま西暦1272年(文永9年)に崩御します。皇位継承については遺言にも残っていなかったのです。

亀山天皇は、元寇の時に日本勝利のために祈りを捧げた天皇として、元寇のところでも紹介しました。

結局、どのように解決したのかというと、簡単に言えば後深草天皇系統と亀山天皇の系統とが代わりばんこで天皇に即位することにしたのです。これを両統迭立と言います。

両統迭立
両統迭立

やがて、「10年に1回の割合で天皇の地位を譲位しましょう」と鎌倉幕府が決めました。

これは朝廷側からしても納得できるものではありません。鎌倉幕府に対して不信感を持つ人たちが現われます。そのような中、第96代の後醍醐ごだいご天皇が即位します。

鎌倉幕府の滅亡の様子は別稿で紹介したいと思います。

鎌倉幕府の滅亡のプロセスをわかりやすく解説

 

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