【中学歴史】鎌倉幕府の政治のしくみをわかりやすく

鎌倉時代 歴史
鎌倉時代
この記事は約5分で読めます。
スポンサーリンク

源頼朝(みなもとのよりとも)は、西暦1192年(建久3年)に後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命され、源氏にとってゆかりのある鎌倉の地に幕府を開きました。

鎌倉幕府はいつ開かれたの?

鎌倉幕府は武士による政権です。

征夷大将軍の源頼朝は朝廷から関東の支配権を認められ、その力を背景にしながら武士たちを束ねていきます。鎌倉幕府に従っている武士のことを御家人(ごけにん)と言います。

幕府は御家人をどのように従えたのでしょうか?今回は鎌倉幕府の政治の仕組みをわかりやすく解説していきます。

なお、鎌倉時代の流れを簡単に理解するには以下のコンテンツが有効です。

鎌倉時代の流れをわかりやすく解説

全体の流れの中で今回のテーマがどのようなテーマなのかを把握することはとても大切です。ぜひ参考にしてみて下さい。

スポンサーリンク

鎌倉幕府の仕組み

人を束ねるためにはしっかりとした仕組みが必要です。

源頼朝は、妻の実家である北条時政(ほうじょう・ときまさ)や和田義盛(わだ・よしもり)などといった有力御家人の力のほか、朝廷で活躍していた大江広元(おおえの・ひろもと)などの知恵も借りながら、鎌倉幕府の仕組みを整えていきました。

朝廷とは異なり、鎌倉幕府の組織は簡素であることが特徴です。

鎌倉幕府の仕組み
鎌倉幕府のしくみ(源頼朝の時代)

上の仕組みで重要なのは、侍所(さむらいどころ)政所(まんどころ)及び問注所(もんちゅうじょ)、それから守護(しゅご)地頭(じとう)です。

鎌倉幕府の中央の組織について

まずは、幕府の中央の組織について見ていきましょう。侍所と政所と問注所です。高校入試では、組織名とその役割が押さえられたらOKです。

侍所は御家人を統率するための組織です。西暦1180年に作られました。侍所のリーダーである別当(べっとう)には、東国出身の御家人である和田義盛が就きました。

政所は西暦1191年までは公文所(くもんじょ)と呼ばれていました。西暦1184年に置かれています。源頼朝が従三位(じゅさんみ)という朝廷でも高い位に就いたことをきっかけに、政所(まんどころ)と呼び名が改まりました。実は、政所は鎌倉幕府のオリジナルな組織ではありません。皇族や従三位以上の公家に特別に置くことが認められます。政所のリーダーである別当(べっとう)には大江広元が就きました。大江広元は貴族出身ですが、とてもキレ者で、源頼朝に対して守護や地頭を置くことを提言したり、幕府と朝廷の間を調整したりするなど大いに活躍をしました。

問注所は裁判事務を担当する組織です。こちらも朝廷の中で裁判事務を担当していた三善康信(みよし・やすのぶ)が執事(しつじ)という役職について中心的な役割をしていました。

鎌倉幕府の地方支配について

次に地方の支配について見ていきましょう。

重要なのは守護(しゅご)地頭(じとう)です。西暦1185年に設置されました。守護と地頭の設置は先ほど登場した大江広元の提案が採用されました。

守護は国ごと(現在で言うところの都道府県単位)に1人置かれました。主に東国の有力御家人がこの職に就きました。国ごとの警察の役割や京都や鎌倉を警備する役割を担いました。もともとは源義経を追討するために置かれましたが、その後はそのような役割を担いました。

地頭は御家人の中から源頼朝が任命されました。鎌倉幕府が成立した当初は平氏が持っていた土地(平家没官領(へいけもっかんりょう))や奥州藤原氏が持っていた土地を幕府から御家人に与えられていました。そこで、荘園や国衙領(こくがりょう)から年貢を取り立てる役割を担いました。御家人の権利が認められる結果となりました。

鎌倉幕府の経済的基盤と政権の性格について

鎌倉幕府の組織は武士の完全オリジナルなものではありません。また、以前から存在している朝廷の支配が消滅しているわけでもありません。国司は相変わらず朝廷から任命されて存在しているし、京都の朝廷もそのままです。朝廷が治める国衙領も存在したままです。

源頼朝その人も多くの知行国(ちぎょうこく)や荘園を持っていたのです。また、全ての武士が鎌倉幕府に従っていたわけでもありません。

我が国において、公家と武士が共存した状態が誕生した、それが鎌倉時代というわけです。

スポンサーリンク

将軍と御家人の主従関係

鎌倉幕府を支える存在として、御家人の存在を忘れてはいけません。

どの時代においてもそうですが、土地をめぐる争いが増えると、武士だけでなく庶民も安定した生活を送ることはできません。自分が耕している田畑がいつ荒らされるか不安であれば、食料や水を安定的に手に入れることはできません。ですから、自分の土地が自分のものであると約束してもらえることはとても大切なことだと言えます。つまり、強い力をバックに、実力で自分の土地を守ってくれる強いリーダーが必要とされている時代だったのです。

それを認める存在が将軍です。将軍は「この土地はお前に任せたぞ」とお墨付きをもらえる立場からすればとてもメリットがあります。鎌倉幕府に従っている武士のことを御家人(ごけにん)と言いますが、御家人は将軍の御恩(ごおん)に対して、将軍のために働くことでそれに報いようとします。それが奉公(ほうこう)です。御家人は「いざ鎌倉」と言って、戦いが起こった時には将軍のために一所懸命戦いました。

御恩と奉公 - 鎌倉時代の主従関係
御恩と奉公 – 鎌倉時代の主従関係

このような将軍と御家人の主従関係が鎌倉幕府の特徴の1つなのです。高校生の皆さんは、御恩と奉公の具体的な内容までしっかりと記憶しておく必要がありますが、中学生の皆さんは、御恩と奉公という言葉やその特徴を押さえておけば試験対策としては大丈夫です。

そして、土地を通じてリーダーと部下の主従関係体制のことを封建制度(ほうけんせいど)と呼びます。この言葉も押さえておきましょう。

 

タイトルとURLをコピーしました