今回は、室町幕府のしくみについて解説をしたいと思います。
まほろば社会科研究室のコンテンツでは、敢えて足利幕府[室町幕府]と室町幕府という2種類の表記を意識的に使い分けるようにしています。
足利幕府[室町幕府]を開いた人はだれなのかというと、足利尊氏です。西暦1338年(暦応元年)のことです。室町幕府の「室町」というのは京都の地名ですが、足利尊氏が幕府を開いた頃、京の都の中にはあったものの、室町には幕府はありませんでした。室町に移ったのは足利尊氏の孫である3代将軍足利義満の時代になってからでした。
そこで、3代将軍が室町に幕府を移してからは室町幕府と呼ぶようにしています。
今回のコンテンツでは、同じ武家政権であった鎌倉幕府のしくみと比較をしながら、室町幕府のしくみを知ろうというコンセプトでわかりやすく解説を加えていきたいと思います。
一緒に復習をしながら学んでいきましょう!
室町幕府のしくみ -中央(京都)
それでは職制図を出してみます。
以下、特に注意すべき点について簡単にまとめてみましょう。
征夷大将軍について
征夷大将軍は天皇から任命されます。
後醍醐天皇のような天皇親政の時代は極めて例外的で、ほとんどの時代において天皇は権力者を任命して日本国内を統治する形態をとっています。
くわしくは、「シラス」と「ウシハク」という2つの統治形態について比較したコンテンツがあるので、そちらをご覧ください。
以下、歴代の足利将軍を列挙してみます。
室町時代の征夷大将軍は15人もいますが、試験対策的には全員の名前を覚える必要はありません。赤字の名前の人は高校入試レベル、緑字の名前の人は大学入試レベルで絶対に押さえてほしい名前です。
- 足利尊氏
- 足利義詮
- 足利義満
- 足利義持
- 足利義量
- 足利義教
- 足利義勝
- 足利義政
- 足利義尚
- 足利義稙(元々は足利義材と名乗っていた。11代将軍の足利義澄の後に再び将軍の座に着いていた)
- 足利義澄
- 足利義晴
- 足利義輝
- 足利義栄
- 足利義昭
一度に全部を完璧にしようとすると失敗します。学習は継続が大切です。まずは赤字、次に緑字を押さえて、順番に言えるようにする!欲を言えば、全部言えるようにしたらよいです。
管領について
次に管領について見ていきましょう。
これは簡単に言えば将軍を補佐する役職だと思ってくれたらよいです。
将軍を補佐すると言って鎌倉幕府で連想するのは執権だと思います。執権と管領はどこが異なるでしょうか?
執権は北条氏の一族が代々受け継いでいきました。
それに対して、管領は斯波氏、細川氏及び畠山氏が就任しました。彼らは足利氏の一族ではありましたが、有力な守護大名の家柄でもあります。ここからも、室町幕府は守護大名の連合政権的な性格を持っていることが分かると思います。なお、斯波氏、細川氏及び畠山氏を指して、三管領と呼びます。
管領は、侍所や政所や問注所を統括して、将軍の命令を諸国の守護に伝達する大切な役割を担いました。
侍所について
侍所は、都の警備や裁判を担当しました。
この組織は鎌倉幕府にもありました。
異なる点は侍所の長官の呼称です。鎌倉幕府の侍所の長官は別当と呼ばれていましたが、室町幕府における侍所の長官は所司と呼ばれます。
侍所の長官は、概ねはありますが、山名氏、赤松氏、京極氏及び一色氏の4氏から任ぜられていました。彼らを四職と呼んでいました。
政所と問注所
試験的にはサッと見ておけば十分なところです。
政所は幕府の財政を扱います。
問注所は訴訟や文書の記録などを担当する部署です。
室町幕府のしくみ -地方
関東について
鎌倉幕府は滅びたものの、やはり関東は注目しておく必要があります。
初代将軍の足利尊氏の時代に、関東(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野及び下野の8カ国)と伊豆(現在の静岡県)と甲斐(現在の山梨県)とを加えた10カ国を治めるために、鎌倉に鎌倉府を置きました。鎌倉府のリーダーは鎌倉公方と呼ばれました。初代の鎌倉公方には足利基氏が任命されました。足利基氏は足利尊氏の息子であり、2代将軍の足利義詮の弟です。公方というのはもともと将軍の尊称です。
ここで、もう一度、室町幕府の職制図を見てみましょう。
京都と鎌倉府を比較すると、組織がほとんど同じ点に気づくと思います。コピペですよ。それだけ関東の統治に力を入れていたと言ってもよいと思います。
関東管領には上杉氏が代々就いていきます。上杉氏は元々は京都の貴族の家柄でしたが、宗尊親王(第88代後嵯峨天皇の皇子)が鎌倉に下向して征夷大将軍になった時に鎌倉に下ったと言われています。後に鎌倉幕府の有力御家人であった足利氏と血縁関係を結びます。そして、足利尊氏の生母が上杉氏でした。足利氏の討幕運動などの折には大活躍を見せました。そういった縁もあってか、関東管領を上杉氏が世襲していくことになりました。
京都と同じような組織が鎌倉にもあったこともあり、後の時代に京都と鎌倉とでは対立を引き起こすことにもなりました。
守護と地頭について
鎌倉時代においては、守護の役割というのは限られたものでした。
しかし南北朝の争乱の中で、守護の役割が拡大していきます。
南北朝で争っていた時、地方武士たちもそれに便乗するかのように争っていました。幕府は守護たちを味方に引き入れるために守護の権限の拡大を行いました。例えば裁判の判決を無視している者に対して裁判の判決を執行する役割(使節遵行と言います)や所有権をめぐって争っている土地の作物を一方的に刈り取る状況(刈田狼藉)の取り締まりを行う権限を与えます。
さらに、守護に対して年貢の半分を取る権利(半済)を与えます。また、戦乱のために年貢が荘園領主のところまで届かなくなります。荘園領主は荘園を持っている人のことですが、彼らは京都や奈良にいるわけで、実際に荘園のある現地にはいません。彼らからすれば年貢が来ないのは大事です。ですから現地で一番力のある守護に年貢の徴収を請け負わせます。これを守護請と言います。そして、現地の地頭や国人たちを配下につけるようになります。
このように守護は地方で力をつけ、鎌倉時代の守護と区別するために守護大名と呼ばれるようになります。
室町幕府と有力守護大名の関係
室町幕府は有力守護大名の連合政権的な性格を持つ
このように見ると、室町幕府は有力な守護大名の連合政権のような性格を持った政権であったことが分かると思います。
室町幕府の体制が固まってくると、守護大名は京都や鎌倉に住み、領地は守護代(守護の代理)に任せるようになります。
守護大名同士の内紛
守護大名の力が強くなると、今度は幕府の地位などをめぐって守護大名同士や彼らの家臣団の中での争いが激化します。
3代将軍の足利義満はこれらを利用し、有力守護大名を討伐します。
以下、簡単に年表形式でまとめていきます。
西暦1390年(明徳元年) 土岐康行の乱
西暦1391年(明徳2年) 明徳の乱により山名氏清(六分一殿と呼ばれていた)が潰される
西暦1392年(明徳3年) 南北朝の統一
西暦1399年(応永6年) 応永の乱により大内義弘が和泉国(現在の大阪府)の堺で討死する
このようにして足利義満の時代に室町幕府は最盛期を迎えることとなったのです。
足利義満は朝廷の中で太政大臣になったり日明貿易(勘合貿易)で巨万の利益を得るなどしました。
これについては別稿でお話をすることにしましょう。