【中学歴史】建武の新政の内容をわかりやすく解説します

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今回は、鎌倉幕府が滅ぼされた後の我が国の政治である「建武の新政(建武の中興)」についてわかりやすく解説していきたいと思います。

鎌倉幕府の倒幕の中心的な役割を果たしていたのが第96代の後醍醐天皇ごだいごてんのうです。後醍醐天皇は鎌倉幕府に隠岐島(現在の島根県)に流されたりするなどしたものの、しぶとくこれに立ち向かわれました。

後醍醐天皇に呼応したのが、鎌倉幕府の御家人であった名門の足利高氏あしかがたかうじ新田義貞にったよしさだ、河内(現在の大阪府)地方にいた楠木正成くすのきまさしげらでした。足利高氏は鎌倉幕府の京都の拠点であった六波羅探題ろくはらたんだいを滅ぼし、新田義貞は鎌倉を襲い、鎌倉幕府は西暦1333年(元弘3年)に滅びました。

鎌倉幕府の滅亡についてわかりやすく解説しています

今回はその後の後醍醐天皇による親政政治(天皇中心の政治)の様子を見ていきたいと思います。

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建武の新政(建武の中興)の内容

後醍醐天皇は天皇中心の政治を目指します。

高校入試レベルであればこの特徴を押さえておけば十分です。具体的な政治機構の話は大学入試レベルの話になりますが、興味のある人はぜひ読み進めてみてください。

元号を「建武」と改める

まずは元号を「建武けんむ」と改めます。

「建武」という元号は、かつて中国(チャイナ)に存在した王朝、後漢の光武帝こうぶていの頃に使われた元号です。光武帝は漢王朝を再興させた皇帝として有名です。光武帝については、弥生時代の中国(チャイナ)を紹介したコンテンツをご覧ください。

弥生時代の頃の中国(チャイナ)の様子もわかりやすく解説しています

後醍醐天皇は、漢を再興させた光武帝のような為政者を目指していたのだろうなと拝察できそうですね。

建武の新政(建武の中興)の特徴

建武の新政(建武の中興)の政治の特色を見てみましょう。

  • 幕府は作りません!(武家が政権を握ったら天皇中心の政治はできない)
  • 上皇による政治は行わないようにします!(院政を敷いたら天皇による政治ができない)
  • 摂政や関白を廃止します!(あくまで天皇が政治を行うので補佐する役職は不要だ)
  • その他、律令制度の整理をします!

後醍醐天皇は、第60代の醍醐天皇や第62代の村上天皇の時代のような天皇親政の時代を目指そうとしていました(醍醐天皇の治世を「延喜えんぎ」、村上天皇の治世を「天暦てんりゃく」と呼ぶことが多いです)。

保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務をほしいままにせしかども、元弘三年の今は天下一統に成しこそめづらしけれ。君の御聖断は延喜・天暦のむかしに立帰たちかえりて、武家安寧に比屋謳哥ひおくおうかし、いつしか諸国に国司・守護を定め、卿相雲客けいそううんきゃく、各其の位階に登りしてい、実に目出度めでたかりし善政なり。

「梅松論」から建武の新政についての記述を抜粋

ちなみに、後醍醐天皇という名前は、醍醐天皇のお名前にあやかって自ら付けられました。

このような感じで、後醍醐天皇はアグレッシブに天皇中心の政治を推進しようとします。

後醍醐天皇は「綸旨」を多用して政治を行った

後醍醐天皇は「綸旨りんじ」という形式を使って政治を行いました。

天皇の名前で発せられる文書のことを「詔勅しょうちょく」と言い、特に格式の高い文書については「中務省なかつかさしょうという官庁が原案を作成し、太政大臣だいじょうだいじんなどの副署ふくしょ(署名)を付けて天皇が裁可さいかをする」という形式で、手続きを踏んで渙発かんぱつされます。

一方、「綸旨」も天皇の名前で発せられる文書の一種ではありますが、蔵人くらうどという天皇の秘書の役割を担う人を通して発する文書です。手続きはとても簡素です。本来であればあまり重要ではない内容の天皇の聖旨せいし(天皇の考え方)を表すものでした。

ところが、後醍醐天皇は天皇親政を目指しており、内容が土地の所有権を決定するような重要な内容であっても、多くの過程を踏まなければならない「詔勅」の形式よりも「綸旨」を多く用いました。その方が迅速に天皇の意志を表明することができるとお考えになられたからです。

これが実は大問題を起こすことになりますが、それは後述します!

建武の新政(中興)の職制

さて、後醍醐天皇が天皇親政を行うにあたって、どのような組織を整えたのでしょうか?具体的に見てみましょう。

建武の新政(中興)の職制
建武の新政(中興)の職制

まずは中央から見ます。

後醍醐天皇は記録所という機関を置き、ここを政治の中心の機関とします。一般政務の政務の最高議決機関という説明がなされることが多いです。この機関のモデルは、後三条天皇の御代に設置された記録荘園券契所きろくしょうえんけんけいじょ(記録所)です。藤原氏の摂関政治に陰りが見えてきた頃に後三条天皇が藤原氏の荘園を整理するために設置したもので、天皇親政を象徴するような機関でした。

それから雑訴決断所ざっそけつだんしょです。先ほど述べた天皇の「綸旨」だけでは解決できない土地の所有権などの争いをこの機関で扱います。鎌倉幕府の引付ひきつけの業務を引き継いだ機関だという覚え方で大丈夫です。

他には武士を束ねる機関として武者所むしゃどころが置かれ、恩賞の事務を行う恩賞方おんしょうがたが置かれました。

次に地方ですが、国ごとに国司と守護の両方を後醍醐天皇が任命するという形を取りました。また、地方の機関としては、東北地方に設置された陸奥将軍府むつしょうぐんふ、東国の中心とも言える鎌倉には鎌倉将軍府かまくらしょうぐんふがそれぞれ置かれました。

足利高氏の改名

鎌倉幕府の倒幕の際に目覚ましい働きをしたのが足利高氏でした。

足利高氏は倒幕後に後醍醐天皇のもとで働きますが、この時、名前を高氏から尊氏へと改めました。

これは後醍醐天皇のいみなである尊治親王たかはるしんのうの「尊」の字を高氏に与えたのです。高氏の「高」の字は、14代執権の北条高時の「高」の字を与えられて名乗ったものでしたが、これを改めた形となりました。

天皇の名前の一字を自らの手によって頂くことは大変名誉なことでした。

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建武の新政(中興)の内容とその結果

上のような方針で後醍醐天皇は親政を行いましたが、どのような結果になったのでしょうか?

結論から言えば、失敗におわりました。

原因1 武士の慣習を無視した

鎌倉幕府が滅亡したら武士がいなくなったわけではありません。むしろ、武士たちの協力があったからこそ鎌倉幕府はなくなりました。

これまで、武士たちは鎌倉幕府が仲裁に入りつつ、武士たちが作ってきた慣習にしたがって領地の問題を解決してきました。これまで鎌倉幕府が御家人から支持を受けたのは、裁判を公平にやってくれたからという側面がありました。鎌倉時代の末期になるとそれが機能しなくなったから幕府への支持を失ったのです。倒幕に動いた武士たちは公平に裁いてくれる人を望んでいたのです。つまりそれが後醍醐天皇だったのです。だから不満が高まるのです。

幕府が滅亡したら武士たちは恩賞がもらえると思っていました。しかしその恩賞も不平等なもので、また天皇の綸旨がどんどん出されて武士たちがこれまで積み上げてきた慣習が無視されます。

慣習が無視されるということはそこにはトラブルが起こります。「今まではこうだったのに…。違うのかよ!」という感じですね。不満がたまるのは当然です。

原因2 貴族の慣習を無視した

建武の新政は貴族の慣習である世襲制を無視します。世襲制というのは、特定の家に生まれた人だけが特定の地位に就くやり方のことを意味します。平安時代で言えば摂関家がそうでした。摂関家は相変わらず健在です。

そのような中で新しい人材を登用するとどうなるのかと言うと、彼らからの不満が大きくなるわけです。「ねたみ」ってヤツですね。

武士たちだけでなく、貴族からの不満も噴出します。

よく、建武の新政は貴族中心の政治に不満を持った武士たちが…ということが言われたりしていますが、貴族からの不満もあったのです。

庶民からの不満 「二条河原の落書」

庶民からの不満も高まります。

鎌倉幕府が滅亡した頃、戦乱が相次いで起こっていたため、人々の暮らしは決して恵まれたものではありませんでした。

そのような中で後醍醐天皇は「大内裏だいだいりの建設」を提案します。これも後醍醐天皇による親政を行うために、後醍醐天皇が必要不可欠なものだと考えたからです。ところが大内裏の建設にはたくさんのお金が必要です。生活の苦しい庶民は不満を持つようになります。

そのような中でこんな落書きが京の都で出回ります。有名な「二条河原にじょうがわら落書らくしょ」です。

此頃このごろ都ニハヤル物
夜討ようち 強盗 謀綸旨にせりんじ
召人めしうど 早馬はやうま  虚騒動そらさわぎ
生頸なまくび 還俗げんぞく 自由まま出家
俄大名にわかだいみょう 迷者
安堵 恩賞 虚軍そらいくさ
・・・

「二条河原の落書」『建武年間記』

偽物の綸旨までもが出回ると大混乱ですよね。

足利尊氏がついに立ち上がる

こういった京都の混乱の様子をみて、鎌倉幕府があった時の方が良かったのではないか!ということで、北条高時の息子である北条時行が信濃(現在の長野県)で反乱を起こし、鎌倉を攻めます(西暦1335年(建武2年))。

この時、鎌倉将軍府には足利尊氏の弟である足利直義ただよしがいました。

足利尊氏は、弟の足利直義を助けるために、京都から鎌倉に向かいたいと後醍醐天皇にお願い申し上げましたが、後醍醐天皇はこれを許可しませんでした。実はこの時には既に足利尊氏の近辺に「建武の新政(中興)」に対して不満を持った人たちが集まっていました。それをご覧になっていた後醍醐天皇は、足利尊氏が京都から出ると彼らは足利尊氏の元に集まり自分に反旗を翻すと考えたからです。

しかし、足利尊氏は後醍醐天皇のご意向を無視し、鎌倉に下ってしまいました。そして、北条時行による中先代なかせんだいの乱の鎮圧に成功します。しかし、足利尊氏は京都には戻らずそのまま鎌倉に留まります。そして後醍醐天皇を無視して勝手に戦いに功績のあった武士たちに恩賞を与えました。

2つの「錦の御旗」が現れる!

これに激怒した後醍醐天皇は、新田義貞を足利尊氏に差し向けました。これに対して足利尊氏は新田義貞軍を打ち破って京都に攻め上ったものの、東北地方から進軍してきた北畠顕家軍によって背後を襲われて九州まで落ち延びます。後醍醐天皇は「にしき御旗みはた」を立てます。「錦の御旗」というのは、天皇の軍の旗のことで、官軍です。つまり足利尊氏は逆賊ぎゃくぞくとして扱われます。足利尊氏としては絶体絶命のピンチです。天皇に向けて弓矢を向けることは日本人の常識から考えて絶対にあってはならないことです。足利軍は戦意を喪失します。

足利尊氏には建武の新政に不満を持った武士たちが集まっています。戦を止めるわけにはいかないのです。そんな時、足利尊氏軍には知恵者がいました。

光厳こうごん上皇がいらっしゃるではないか!」と。

そのあたりについて少しだけ解説しましょう。

後醍醐天皇が皇位に就かれる前、朝廷は2つに分かれていました。

両統迭立
鎌倉時代の両統迭立

持明院統と大覚寺統の2つです。

なぜ皇位を継承するにあたって2つの系統が出てきてしまったのかについては、別稿にて詳しく述べています。

原稿の後半で両統迭立についてわかりやすく解説しています

光厳天皇は後醍醐天皇が隠岐島に配流になっている頃に即位されました。光厳天皇の父君は第93代の後伏見天皇でいらっしゃいました。その後の倒幕運動を経て鎌倉幕府が滅亡した後に後醍醐天皇が再び天皇の地位に就くと、光厳天皇は上皇となりました。

南北朝時代の天皇の系図
南北朝時代の天皇の系図

足利軍は光厳天皇(上皇)がいる持明院統に目をつけます。

足利尊氏は上皇になっていた光厳上皇から「新田義貞を倒す」院宣いんぜん(=上皇の命令)をもらうことに成功しました。足利尊氏は持明院統の天皇と協力して自らも官軍を名乗ったのです。

足利尊氏は九州から陸路と瀬戸内海から再び京都を目指します。これを楠木正成と新田義貞が迎え撃ちます。足利軍は九州地方で勢いを盛り返してやってきます。楠木正成はこれを見て後醍醐天皇に京都から比叡山の延暦寺に逃れることを提案します。京都は攻めやすく守りにくい土地だという常識があったからです。足利尊氏に京都におびき寄せて占領させておいてそこを攻撃しようという算段です。しかし後醍醐天皇はこの進言に反対されます。「天皇が都から離れるのはよくない!」と…。

楠木正成はそれでも後醍醐天皇を守るために戦いの前線に立ちます。

一方で、足利尊氏は作戦により楠木正成の軍と一緒に構えていた新田義貞の軍との引き離しに成功。楠木正成の軍は陸路からの足利軍と先回りをして瀬戸内海から上陸した足利軍とに囲まれました。

後醍醐天皇に忠義を尽くす楠木正成は足利尊氏と懸命に戦いましたが敗れ、戦死しました。これが有名な湊川みなとがわの戦いです。楠木正成が息子の楠木正行まさつらと別れて湊川の戦いで戦死するまでを歌った有名な歌が「大楠公だいなんこうの歌」です。戦前の小学生はこの歌を歌うことができました。

「大楠公の歌」(作詞:落合直文、作曲:奥山朝恭)

この戦いの後、足利尊氏は京都に攻め上がり、やがて後醍醐天皇を追いつめ幽閉してしまいます。足利尊氏は後醍醐天皇が持っていた三種の神器を光厳上皇側に引き渡しました。

西暦1336年(建武3年)に、足利尊氏は建武式目けんむしきもくと呼ばれる法典を出します。建武式目は北条泰時の御成敗式目ごせいばいしきもく貞永式目じょうえいしきもく)」を手本として、「武士の慣習を大切にしていきます!」といったことを示した新しい武家政権の施政方針です。ちなみに、「建武式目」の中には「古くは醍醐天皇や村上天皇の頃の政治、最近では北条義時や泰時父子の時代の政治を模範としよう!」と書かれています。

さらに、足利尊氏は光厳上皇の弟君である光明こうみょう天皇を擁立し、即位させることに成功しました。

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南北朝時代の始まり

さて、ここでもタダでは終わらないのが後醍醐天皇です。

後醍醐天皇は京都を抜け出し、奈良県の吉野へ向かいます。そして「我こそが本物の朝廷だ!」と宣言します。後醍醐天皇が光明天皇に渡した三種の神器は実はニセモノだと主張なさいました。

こうして、我が国の中には2つの朝廷が誕生してしまいました。京都の北朝と奈良(吉野)の南朝です。南北朝が統一されるまでの西暦1392年(明徳6年)までの約60年間の時代のことを南北朝時代なんぼくちょうじだいと呼びます。

 

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