昭和27年(1952年)4月28日は、日本が「主権を回復した日」です。
この日の翌日、4月29日は「昭和の日」として広く知られた国民の祝日ですが、その前日である4月28日が「主権を回復した日」であることは、意外と知られていないかもしれません。
さて、「主権回復の日」とは、日本がサンフランシスコ平和条約の発効によって主権を回復した昭和27年(1952年)4月28日を記念する日です。この日は、日本が連合国の占領から正式に独立し、国際社会への復帰を果たした歴史的な日です。
しかし、この日に至るまでの道のりには、沖縄がまだアメリカの支配下に置かれていたという現実がありました。
本記事では、主権回復の日に加えて、沖縄返還の意義も含めて、日本が完全な独立を果たすまでの歴史を振り返ります。
なお、この記事は、船橋市内の小学校で校長を務め、「日本が好きになる!歴史授業」のプロデューサーである渡邉尚久先生のお話や、国語WORKSの松田雄一先生の授業内容を参考に作成しました。
昭和21年の正月に詠まれた昭和天皇の御製と占領政策
第124代の昭和天皇が「新日本建設の御詔勅」を渙発されたのと同時期に次の御製をお詠みになりました。
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ
昭和21年(1946年)に昭和天皇によって詠まれた御製です。
戦後の日本がまだ占領下にあり、厳しい時期を迎えていた頃に詠まれました。降り積もる雪やその寒さの中でも色を変えない松の姿は、困難な状況にも耐え忍び、決して揺るがずに誇りを保ち続ける日本国民への願いを象徴しています。昭和天皇は、国民に対して、どんな試練にも耐え抜き、松のように強く逞しくあり続けてほしいという願いを込められました。これは、戦後の復興を目指して歩み始めた日本に向けられた、力強いエールでもありました。戦争によって深く傷ついた日本が、再び立ち上がり、復興を遂げるためには、国民一人ひとりがその精神を持つことが必要であったのです。
GHQによる占領政策は、日本の伝統や文化をも大きく変えるものでした。日本固有の価値観や社会構造が徐々に崩され、日本のアイデンティティが揺らぐような状況が続きました。
それでも、日本はこれらの困難に耐え続け、主権を取り戻す日を待ち続けたのです。
サンフランシスコ平和条約と主権回復の日
サンフランシスコ平和条約の締結
サンフランシスコ平和条約は、昭和26年(1951年)9月8日にサンフランシスコで締結され、日本が第二次世界大戦後の占領期を経て、再び主権国家としての地位を取り戻すための基盤を築いた平和条約です。
この条約の発効により、昭和27年(1952年)4月28日に日本は連合国の占領から解放され、独立を回復しました。この日を「主権回復の日」として記念することで、日本が再び国際社会の一員として歩み始めたことを強く意識するようになりました。
主権回復の日に詠まれた昭和天皇の御製
昭和天皇がこの日に詠まれた御製を紹介します。
風さゆる み冬は過ぎて まちにまちし 八重桜咲く 春となりたり
この節目を象徴するものです。長い冬が過ぎ去り、待ち望んだ春がようやく訪れ、八重桜が咲く様子に、日本の主権回復と再生への希望が託されています。
昭和天皇は、戦後の混乱と占領下の厳しい時期を「み冬」と表現し、その冬を乗り越えた後に待ち望んだ「八重桜咲く春」として日本の独立を讃えられたのです。八重桜が咲く季節がちょうど主権を回復した日と重なる点にも注目しておきたいところです。とても美しく喜びに溢れた御製のように感じます。
沖縄返還と完全な主権回復
沖縄返還までの経緯の概略
昭和27年(1952年)4月28日の「主権回復の日」において、日本は連合国の占領から正式に解放され、独立を回復しました。
しかし、この日にもかかわらず、日本全土が完全に独立を果たしたわけではありませんでした。沖縄は依然としてアメリカの統治下に置かれており、本土と沖縄の間には大きな隔たりが存在していました。
沖縄が日本に復帰するのは、それから20年後の昭和47年(1972年)5月15日のことです。時の内閣は佐藤栄作内閣でした。
この「沖縄返還の日」は、日本全土が真の意味で独立を取り戻す瞬間であり、戦後日本の再生がようやく完成したことを意味します。しかし、沖縄の返還が実現するまでには、多くの困難と努力がありました。占領下の沖縄では、アメリカの支配が続き、沖縄の人々は祖国復帰を強く願い続けていました。
沖縄返還の背景には、昭和天皇の深い思慮と、沖縄の人々の粘り強い運動がありました。
昭和天皇の沖縄に対する御心
沖縄返還の背景には、昭和天皇の深い思慮がありました。昭和天皇は、連合国軍最高司令官であるマッカーサーに対して、沖縄が永久にアメリカの支配下に置かれないようにするための提案を行い、将来の返還への道を残されました。この提案がなければ、沖縄が日本に戻ることはなかったかもしれません。また、昭和天皇は沖縄の返還を強く望まれ、沖縄行幸を願っておられました。
昭和47年(1972年)の沖縄返還が実現した後、昭和天皇は沖縄訪問を強く望まれました。しかし、沖縄には過激派が入り込み、反皇室活動が展開されていたため、訪問は延期され続けました。特に、昭和50年には皇太子殿下(現在の上皇陛下)が沖縄を訪問された際には皇太子殿下に対して火炎瓶が投げつけられるという事件が起き、昭和天皇の沖縄訪問は実現しませんでした。
昭和62年(1987年)、昭和天皇は沖縄国体への出席を予定され、ようやく沖縄訪問が実現する見通しとなりましたが、訪問を翌月に控えた9月、昭和天皇は慢性膵炎で倒れられ、手術を余儀なくされ、沖縄訪問は再び中止となってしまいました。この時の無念の思いを、昭和天皇は次の御製に詠まれています。
思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを
この御製には、戦争で最も多くの犠牲を出した沖縄を訪問し、その苦しみに対して心を込めてお伝えしたいという昭和天皇の強い願いが込められています。
しかし、その願いは叶わないまま、昭和天皇は崩御しました。
このご無念のお気持ちは、後に上皇陛下(平成の天皇陛下)に受け継がれ、上皇陛下は平成5年(1993年)に初めて「天皇」として沖縄を行幸しました。
仲村俊子さんらの草の根運動による祖国復帰への活動
また、沖縄返還運動の先頭に立ったのは、沖縄の小学校の先生である仲村俊子さんのような草の根のリーダーたちでした。彼女たちは、教育を通じて沖縄の子供たちに日本人としての誇りを持たせ、祖国復帰を目指して奮闘しました。仲村さんは、沖縄返還が危ぶまれる中、自ら東京に赴き、涙ながらに国会で沖縄の復帰を訴えたのです。このような努力が実を結び、昭和47年(1972年)5月15日に沖縄は日本に復帰しました。
しかし、返還の日を「喜びの日」として迎えるはずだったこの日が、今では「屈辱の日」として報じられることもあります。沖縄の米軍基地問題が依然として続いているからです。それでも、5月15日は、沖縄が日本に戻ってきた喜びの日であり、全ての日本国民にとって誇るべき日であることを忘れてはなりません。
昭和天皇と沖縄の人々が共に歩んだこの道のりを振り返り、私たちは、5月15日をどのように受け止めるべきかを考えるべきです。沖縄返還は、日本全体が一つの国として再び歩み始めた瞬間であり、その意義を私たちはしっかりと認識し、未来に向けて語り継いでいかなければなりません。
結び
主権回復の日は、日本が戦後の混乱を乗り越えて再び独立を取り戻した日です。
しかし、その道のりには沖縄の返還という重要な課題が残されていました。昭和47年(1972年)5月15日の沖縄返還をもって、日本は全土で完全な独立を達成したのです。
この歴史を忘れず、昭和27年(1952年)4月28日と昭和47年(1972年)5月15日をセットで「主権回復の日」として記憶することは、日本の歴史に対する深い理解と、未来への希望を共有するために重要です。
昭和天皇の御製「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」と「風さゆる み冬は過ぎて まちにまちし 八重桜咲く 春となりたり」は、戦後の日本の復興と主権回復の過程を象徴する詩として、私たちの心に深く響きます。
戦後の日本が歩んだ道は決して平坦なものではありませんでしたが、昭和天皇の御製に表された強い精神と希望を持ち続けることで、日本は再び世界にその存在を示すことができました。この歴史を忘れず、次の世代に伝えていくことが私たちの責任であり、未来に向けた希望を持ち続けることが重要です。
これからも、この記念日を通じて、日本の未来を見据え、次の世代に伝えていく責任を果たしていきましょう。