【中学歴史】「魏志倭人伝」から見た弥生時代(日本)の様子

歴史
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今回は、「魏志倭人伝」という中国(チャイナ)の書物から見た日本の弥生時代の様子についてわかりやすく解説していきたいと思います。

第1に、「『魏志』倭人伝」に書かれていた頃の中国(チャイナ)の様子を概観します。中国(チャイナ)史を簡単に見ます。

第2に、「『魏志』倭人伝」の中で日本がどのように記述されているのかを見ます。ここで、教科書などでおなじみの邪馬台国や卑弥呼が登場します。古代史ファンではない人も、邪馬台国がどこにあったのか?ということについて議論があることが知っている人が多いと思います。そんな邪馬台国や卑弥呼がどんなふうに「魏志倭人伝」に載っているのかを見ていきましょう。

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中国(チャイナ)では三国時代が始まる

中国(チャイナ)の歴史については中学校の教科書には載っていないので、無理そうだと思ったらとりあえずパスで大丈夫!暗記事項は特にないので、読み物として読んでいきましょう。

後漢の続きから話を始めます。漢の時代については、以下のコンテンツを復習してみましょう!

後漢が滅びるのは西暦220年のこと。後漢の皇帝の権力を利用した曹操(そうそう)の息子の文帝(ぶんてい)が滅ぼしました。魏(ぎ)という国を建国しました。西暦221年に曹操のライバルであった劉備が皇帝を名乗り蜀(しょく)という国を建国。西暦222年には孫権も皇帝を名乗り、呉(ご)という国を建国しました。中国(チャイナ)は三国に分裂しました。いわゆる三国時代です。皆さんの中には「三国志」という名前を知っている人もいると思いますが、まさに「三国志」の時代です。

三国時代を簡単に時系列で説明します。中学生の皆さんは覚えなくてもよいですよ。

西暦263年 蜀が魏によって滅ぼされる。
西暦265年 魏が倒れて西晋(せいしん)が建てられる。
西暦280年 西晋が呉を滅ぼす。

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「『魏志』倭人伝」をわかりやすく解説します

「三国志」とは?

「三国志」という歴史書は、後漢の末期から西晋が呉を滅ぼした頃までが書かれました。「三国志」の中の「魏書」の東夷伝倭人条(とういでんわじんじょう)のことを一般的に「『魏志』倭人伝ぎじわじんでんと呼ばれています。

「三国志」は晋(しん)の時代に陳寿(ちんじゅ)という人が編纂しました。

以下は、「『魏志』倭人伝」の中で日本について書かれた部分をピックアップしてわかりやすく解説してみます。

邪馬台国(やまたいこく)の位置について

「『魏志』倭人伝」には邪馬台国(やまたいこく)と呼ばれる国について書かれています。教科書にも邪馬台国と載っているのですが、実は原文にはそんなふうには載っていません。邪馬壹国(やまいこく)と書かれています。ここでは教科書の表記にしたがって邪馬台国としますが、「『魏志』倭人伝」には邪馬壹国と書かれていたことを知っておくとすごく素晴らしい。試験ではまず出ません(笑)。

邪馬台国は連合国家だったと言われています。小さなクニ(国)の連合体だったということです。

漢の時代においては、100カ国余りの国に分かれていて、そのうちのいくつかの国は漢の皇帝に対して貢ぎ物を持ってきた者がいました。魏の時代になると、使者を魏に遣(つか)わしてくる国は30カ国ほどになりました。

朝鮮半島にある帯方郡(たいほうぐん)から倭の国へ行くためには次の国々を通っていきます。韓国(かんこく)から狗邪(くや)韓国へ。ここではじめて海を渡って対馬国(つしまこく)に着く。また海を渡る。一支国(いきこく)に着く。また海を渡る。末廬国(まつらこく)に着く。それから伊都国(いとこく)、奴国(なこく)、不弥国(ふみこく)、投馬国(つまこく)を通って邪馬台国(やまたいこく)に着きます。そこは女王の都です。

邪馬台国がどこにあったのかをめぐる議論は古代史最大の謎とされていますが、近畿地方(畿内説)にあったのではないかという説と九州にあったのではないかという説(九州説)とが150年以上にもわたって対立しています。

もし畿内説に立つと、邪馬台国は大きな連合国家でありヤマト政権につながったのではないかと言われます。一方で、邪馬台国は九州地方にある小さな連合国家であったことになりますが、後に日本を統一するヤマト政権と対立していたのか融和的だったのかなどについては分かりません。

邪馬台国の様子は?

邪馬台国では、以前は男の王の時代が70年から80年続いていましたが、国が乱れ戦争が続いたので、国々の王が相談して1人の女性を王とすることに決めました。この女王の名を卑弥呼(ひみこ)と言います。卑弥呼は神さまのお告げを聞くことができると多くの人々から信じられていました。卑弥呼はすでに成人していましたが夫はいませんでした。卑弥呼の弟が卑弥呼の占いにもとづいて政治を行っています。王になってから卑弥呼を見た者はいません。

卑弥呼が朝貢している!

景初3年(西暦239年)、卑弥呼はたくさんの貢ぎ物を持たせて使いを派遣しました。そして朝貢させてほしいと頼みました。魏の皇帝の家来になるためです。その後、帯方郡の長官は洛陽(らくよう)という魏の都に案内しました。

その年の12月、魏の皇帝は卑弥呼に使いを通じてこう伝えました。

「おまえが倭の王であることを認めてやろう。その印としてこの金印紫綬(きんいんしじゅ)を授けよう。」

金印紫綬というのは、紫の組(く)み紐(ひも)の付いた金の印のことです。これはとても最高の栄誉なのです。また、「親魏倭王(しんぎわおう)」という魏以外の異民族に与えられる最高の称号を手に入れ、これを持ち帰りました。

実は、卑弥呼が率いる邪馬台国は狗奴国(くなこく)と激しく戦争をしていました。そこで、卑弥呼は魏にその戦いの様子を知らせ応援を求めたのです。だから、卑弥呼は魏に使いを送って(朝貢)、冊封を受けました。

朝貢冊封体制という言葉の意味は大丈夫でしょうか?

朝貢冊封体制
朝貢冊封体制

しっかりと復習をしておきましょう!

なお、卑弥呼は「親魏倭王」という金印をもらったことが「『魏志』倭人伝」には記されているのですが、現物は発掘されていません。その点について、「漢委奴国王」の金印が発見されたことと比較しておきましょう。

卑弥呼が死んだ邪馬台国はどうなったか?

卑弥呼が死ぬと、大きなお墓が作られました。墓の直径は100歩以上もありました。

卑弥呼の死後の邪馬台国は再び男の王を立てましたが、国中がこの王には従いませんでした。そのために戦いが起きて1000人以上が死にました。

そこで、一族の壱与(いよ)という13歳の少女が王になりました。

壱与(いよ)によって争いはおさまり、ようやく国中がまとまりました。

壱与も西暦266年に晋の都の洛陽に使いを派遣しました。なお、このハナシは「『魏志』倭人伝」には書かれていませんが、「晋書」という歴史書に書かれています。

「卑弥呼」や「邪馬台国」の存在について – 我が国の肇国との関わり

「『魏志』倭人伝」には「邪馬台国」という言葉や「卑弥呼」という人物名が載っています。しかし、我が国の歴史書である「古事記」や「日本書紀」にはこれらの名前は載っていません。まして、3世紀の日本国内で文字が使われていた記録が残っていません。だから、ホントに邪馬台国があったのかすらよく分かっていません。よって、日本の肇国(ちょうこく)と邪馬台国がどのように関わっているのかも明らかになっていません。

この点については、今後の研究が発展することを期待するしかありません。

 

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