奈良時代の政治の流れまとめてみました。
奈良時代は、藤原京から平城京に遷都された第43代元明天皇の治世の西暦710年(和銅3年)からの第50代の桓武天皇の治世の西暦794年(延暦13年)に山背国の平安京に遷都されるまでの84年間を指します。
律令国家体制を整えて政治は安定したかのように思われがちですが、実は政治の実権を握る人たちがコロコロ変わる不安定な時代だったと言えます。なんと天皇になろうとした僧まで現れました。これまでの国史(日本の歴史)では考えられないようなことが起こりました。
中学校の教科書にはあまり載っていないところのお話になりますが、暗記するというよりも物語(ストーリー)として読んでくださるとうれしいなと思います。
元明天皇の治世
西暦707年(慶雲4年)に、大宝律令制定時の天皇だった第42代の文武(もんむ)天皇が崩御されて、第43代の元明(げんめい)天皇が即位しました。元明天皇は文武天皇の母親であり、また天智天皇の皇女でもあらされました。元明天皇は天智天皇の子の資格で即位されました。ここでも男系は継続されています。文武天皇と藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である宮子(みやこ)との子である皇子が幼少であったため、元明天皇はその中継ぎということになります。
元明天皇の治世のもとでは、以下のような政策が実行されました。
和同開珎の鋳造
西暦708年に、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)で和銅が発見されて朝廷に献上されました。これを機に朝廷は元号を慶雲(けいうん)から和銅(わどう)に改元しました。おめでたいことがあった場合に改元が行われることを祥瑞改元(しょうずいかいげん)と言います。
そして、西暦708年(和銅元年)に、天武天皇が鋳造した富本銭(ふほんせん)に続いて、和同開珎(わどうかいちん)が鋳造されました。
平城京への遷都
西暦710年(和銅3年)に、これまでの藤原京から奈良の平城京(へいじょうきょう)に都が遷されました。中国(チャイナ)の唐の長安(ちょうあん)という都に倣ったとされています。
平城京は、東西と南北に走る道で碁盤の目のように区切られて区画整理が行われました。都の中央には朱雀大路(すざくおおじ)という大きな道路が、平城宮の南にある朱雀門(すざくもん)から平城京の南にある羅城門(らじょうもん)まで南北に走っていました。奈良時代の政治は都の北側にある平城宮(へいじょうきゅう)で行われました。
平城京は長安と異なり城壁が設けられていませんでした。唐は異民族の侵入を常に考えなくてはいけなかったため、都の防御を強固なものにしなければなりませんでした。そういう意味で、日本は都での戦乱を想定していなかったわけですから平和だったのだなということが分かると思います。
あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり
「万葉集」巻三(三二八)
上の和歌は小野老(おののおゆ)という人物が大宰府にいた時に平城京を想って詠った和歌だと言われています。「あをによし」が平城京を指す言葉。ココで言う「あを(青)」は今で言うとエメラルドグリーンのような色。屋根の色でした。「に(丹)」は丹色(にいろ)という色のことで、朱色っぽい色だと想像してもらえるとよいです。これが柱の色になっていました。とてもきらびやかな都だったことが想像できます。
元正天皇の治世
元正天皇の即位
文武天皇と藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である宮子(みやこ)との子である首皇子(おびとのおうじ)は西暦714年(和銅7年)に14歳で元服して皇太子となりました。もう天皇に即位可能な年齢になっていましたが、天武天皇の孫で政治的な能力もある長屋王(ながやおう)という皇子がいました。長屋王の即位を回避するために、もう1回中継ぎを置くことにしました。西暦715年(和銅8年)に元明天皇は譲位し、第44代元正(げんしょう)天皇が即位されました。元正天皇は草壁皇子(くさかべおうじ)と元明天皇の間に生まれた女帝でした。草壁皇子は天武天皇の孫であり、元正天皇は天武天皇の男系の孫としての資格で皇位に就きました。
文武天皇と藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である宮子(みやこ)との子である首皇子(おびとのおうじ)が皇位に就くということは、藤原氏にとってはより強い権力を手にできる可能性が高くなります。そういった意味で言うと、長屋王に皇位に就かれると藤原氏にとっては都合がよろしくないわけです。元正天皇の即位にはこういった背景があったのだと考えられます。
西暦716年(霊亀2年)に、文武天皇と藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である宮子(みやこ)との子である首皇子(おびとのおうじ)は、藤原不比等の娘の光明子(こうみょうし)を妃にむかえます。藤原氏はさらに皇室との親戚関係を深くしようとします。その間には、後に第46代孝謙(こうけん)天皇・第48代称徳(しょうとく)天皇として即位される阿倍内親王(あべないしんのう)がお生まれになりました。
三世一身の法の制定
西暦720年(養老4年)に藤原不比等が死去すると、長屋王政権が誕生しました。長屋王政権では、西暦723年(養老7年)に三世一身の法が制定されます。長屋王は元正天皇からの承認が厚かったと言われています。
聖武天皇の治世
長屋王の変
一方、首皇子(おびとのおうじ)は西暦724年(神亀元年)に第45代聖武(しょうむ)天皇として即位されました。
藤原不比等の4人の息子たちは、聖武天皇の妃になっていた光明子を皇后に就けようとしました。皇后というのは、天皇の複数の妻のうち最上位の者にあたる地位を指します。場合によっては天皇の代理となることができる特別な地位でもあります。実は、皇族または皇室から分かれた氏族以外から皇后を立てることは前例にはありませんでした。光明子の立后(りつごう)に反対したのは長屋王でした。長屋王は天武天皇の御孫です。皇族ですし皇室の伝統から外れたことを藤原氏がやっているのですから反対するのは当然です。こうして藤原氏と長屋王の対立が決定的なものとなりました。
そのような中で、聖武天皇と光明子の間に皇子が誕生しました。しかしまもなくその皇子は薨去(こうきょ:皇族がお亡くなりになること)されました。その原因は長屋王が呪い殺したのではないか?と藤原氏は長屋王を追い込みました。西暦729年(神亀6年)に藤原氏は長屋王の邸宅を囲み自害させました。これが長屋王の変です。
この結果、ついに光明子は皇后の地位に就きました。光明皇后(こうみょうこうごう)とお呼びすることが多いです。皇室の歴史上、前代未聞の出来事でした。
長屋王の変の後、縁起のよい亀が朝廷に献上されたことを受け、元号が「天平(てんぴょう)」に改元されました。その亀の甲羅に「天王貴平知百年(天皇は貴く平和な治世は百年に及ぶという意味)」という文字が見えたからなのだそうだ。以後、「天平感宝(てんぴょうかんぽう)」「天平勝宝(てんおぴょうしょうほう)」「天平宝字(てんぴょうほうじ)」「天平神護(てんぴょうじんご)」と元号は続き、奈良時代を象徴する言葉になっていきます。元号が4文字になったのはこの天平年間のみです。
藤原四子は疫病で死ぬ
このように朝廷の中で絶大な権力を握り始めた藤原氏でしたが、その政権も長くは続きませんでした。藤原不比等の息子の4兄弟は疫病により、西暦737年(天平9年)に相次いで亡くなります。当時、天然痘が大流行していたのです。これを人々は長屋王の祟(たた)りだとしておそれました。
橘諸兄政権
藤原広嗣の乱
朝廷でも天然痘が流行り、結局残った政治家の中で、有力者の1人として残ったのが橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物でした。橘諸兄はもともとは皇族で、臣籍降下(皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下に下ること)した人物です。光明皇后は異父妹(いふまい)にあたります。
藤原氏が政権の中枢から外れたので、これに反発したのが藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)でした。藤原広嗣は藤原四兄弟のうちの藤原宇合(ふじわらのうまかい)の息子でしたが、藤原氏内部でも孤立していました。ただ、大宰府で役人をやっていて事実上のトップでした。藤原広嗣は兵を挙げます。朝廷は兵を集めて藤原広嗣を鎮めようとしました。結局、藤原広嗣は説得されて乱は鎮まりました。これを「藤原広嗣の乱」と呼びます。西暦740年(天平12年)のできごとでした。
聖武天皇、都を転々とする
藤原広嗣の乱が起こった頃、聖武天皇は都を転々とさせました。
山背国の恭仁京(くにきょう)→摂津国の難波京→近江国の紫香楽宮(しがらきのみや)
5年間のうちに都を転々とさせました。そして西暦745年(天平17年)に結局平城京に戻ってきました。
鎮護国家の政策 - 国分寺や国分尼寺、大仏造立の詔
聖武天皇も光明皇后もバックボーンは藤原氏です。藤原不比等の息子の4兄弟が相次いで病気で亡くなり、朝廷に反乱まで起こす人も現れる。このような状況だったので、聖武天皇は悩んでおられたはずです。そこで、聖武天皇は仏教の力を借りて国家の安寧(あんねい)をはかろうとしました。
西暦741年に「国分寺建立の詔」を恭仁京で
西暦743年に「大仏造立の詔」を紫香楽宮で
それぞれ出されました。
「大仏造立の詔」の「大仏」とは、有名なあの東大寺の大仏のことです。
大仏建立は壮大な国家プロジェクトでした。資財は多くの人々から集めました。この当時の仏教は一般庶民への布教が禁止されていました。あくまで貴族や僧が学問として学ぶものだったのです。行基(ぎょうき)という僧はこれに違反して民衆に仏教の教えを拡げていました。聖武天皇はこの行基を大抜擢して、東大寺建立に向けて寄付を集めたりする勧進僧に任命しました。また、西暦743年(天平15年)に墾田永年私財法が制定され、ここから得られた税金の一部も大仏建立に充てられました。
孝謙天皇の治世
聖武天皇には皇子がいらっしゃいましたが、早いうちに薨去(こうきょ:皇族が亡くなること)されてしまいました。そこで、聖武天皇と光明皇后との間にお生まれになった阿倍内親王が第46代の孝謙(こうけん)天皇として即位されました。
聖武天皇は太上天皇(上皇)となり、天皇としては初めて出家(僧になること)しました。天皇は偉い神様の子孫ですが、そのような方が仏に仕える身になることを意味するわけですから、大事件とも言えます。
聖武上皇が建立を宣言された東大寺の大仏は、西暦752年(天平勝宝4年)に完成し、大仏開眼供養(だいぶつかいがんくよう)にはインドや唐や新羅からも参加。参列者は1万数千人を超えたとも言われています。公地公民制は崩れていましたが、それでも律令国家である日本の先進性を諸外国に見せつけた大事業となりました。
聖武上皇はこれを見届けるかのように、西暦756年(天平勝宝6年)に崩御あそばされました。
この頃になると、藤原不比等の孫である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が台頭してきました。聖武上皇の皇后である光明皇太后がその背景にあったと言われています。西暦757年(天平宝字元年)に藤原不比等が編さんした養老律令が施行されました。
淳仁天皇の治世
西暦758年(天平宝字2年)に孝謙天皇は淳仁(じゅんにん)天皇に譲位されました。第47代目の天皇です。淳仁天皇は天武天皇から数えて御孫にあたります。ちなみに、淳仁天皇のお父さんは舎人親王(とねりしんのう)と言います。「日本書紀」の編さんにあたった人物です。
淳仁天皇は藤原仲麻呂を重用しました。しかし、光明皇太后が崩御すると譲位したはずの孝謙上皇も引き続き実権を持とうとしました。淳仁天皇と光明皇太后との間には隙間風が吹き始めました。
恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)
西暦761年(天平宝字5年)に孝謙上皇がご病気になられました。その病気を治したとされるのが道鏡(どうきょう)という僧でした。これをきっかけに孝謙上皇と道鏡は親しい関係になったと言われています。
これに対して、淳仁天皇や藤原仲麻呂は危機感を持つようになりました。道鏡が政治に対して口を出すようになり始めていたからです。
一方、孝謙上皇側も黙っていませんでした。上皇は藤原仲麻呂に対して謀反の疑いをかけ、兵を差し向けました。藤原仲麻呂は一族もろとも滅ぼされ、淳仁天皇は淡路島に島流しとなりました。西暦764年(天平宝字8年)のできごとでした。
この事件を藤原仲麻呂の乱とか恵美押勝の乱などと言います。恵美押勝(えみのおしかつ)というのは藤原仲麻呂の別名で淳仁天皇から賜った姓名でした。淳仁天皇が淡路島に流され、天皇の地位は廃位となりました。これを淡路廃帝(あわじはいたい)と言います。
称徳天皇の治世
淳仁天皇の後を継いだのは、何と孝謙上皇でした。孝謙上皇は第48代の称徳(しょうとく)天皇として即位しました。一度天皇の地位にあった方が再び天皇の位に就くことを重祚(ちょうそ)と言います。重祚も異例なのですが、称徳天皇の即位は以下の点で異例でした。
- 女帝が重祚していること(「皇極天皇→斉明天皇」以来2度目。でも2回だけ!)
- 出家したまま即位をしていること
称徳天皇は僧の道鏡を重用しました。道鏡は西暦765年(天平神護元年)に太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)、西暦766年(天平神護2年)に法王(ほうおう)などの高い地位を与えられ、政治を行うようになりました。
宇佐八幡宮神託事件
道鏡はやがて天皇になろうと野心を抱くようになりました。
西暦769年(天平神護3年)に、宇佐八幡宮から、
「道鏡を天皇の位に就けたのであれば世の中は平和になる」
という神様のお告げがあったという報告が朝廷にもたらされました。
称徳天皇は真意を確認するために和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐八幡宮に派遣しました。すると、
「我が国は始まって以来、君臣(くんしん)の別は明確であり、臣下が天皇になったことは一度もない。天皇の地位には皇統の人を立て、そうではない人は排除すべきである」
という託宣(たくせん)が下されました。当然のことです。神話で散々語った通りです。
称徳天皇は先の神託を偽造だとみなしました。和気清麻呂は大隅(おおすみ)国(現在の鹿児島県)に流罪になりましたが、道鏡を天皇の位に就けないという一線だけは守り通しました。
西暦770年(神護景雲4年)に称徳天皇は白壁王(しらかべおう)を皇位継承者に指名された後、崩御されました。
光仁天皇の治世
白壁王は第49代光仁(こうにん)天皇として即位されました。
権勢を誇っていた道鏡は、光仁天皇から下野国にある薬師寺に左遷されました。皇統を穢そうとした人物を朝廷の中枢にいさせては危険だからです。
注目すべき点としては、壬申の乱の後は、原則としては天武天皇系が皇位継承を行ってきました。しかし、天武天皇系の皇位継承候補者が絶たれてしまったため、天智天皇系から皇位継承者が出ました。それが光仁天皇だったというわけです。皇后は井上内親王(いのえないしんのう)でした。井上内親王は聖武天皇の御子にあたります。天武天皇系と天智天皇系が手を結んでいたことも注目すべきです。
光仁天皇は、道鏡が政権の中枢を握っていた時代の仏教偏重(へんちょう)の政策の改革に着手されました。配流されていた和気清麻呂も都に戻されました。
しかしながら、光仁天皇の時代も決して政治は安定しているとは言えませんでした。光仁天皇の皇后である井上内親王と光仁天皇との間に生まれた皇子が光仁天皇を呪い殺そうとしていると嫌疑がかけられました。嫌疑をかけたのは、藤原百川(ふじわらのももかわ)という藤原氏のうちの一人です。井上内親王とその皇子は幽閉され、やがて不可解な死を遂げました。
光仁天皇は、天武天皇系ではない渡来人系の高野新笠(たかののにいがさ)との間にお生まれになった皇子を皇太子に据えました。これが後の第50代桓武(かんむ)天皇となります。
桓武天皇の治世
光仁天皇が崩御すると、桓武天皇が即位しました。
長岡京に遷都
西暦784年(延暦3年)に、桓武天皇は平城京から都を山背国(現在の京都府)に遷都を行いました。これが長岡京です。井上内親王の怨霊の仕業ではないかと言われるほどの多くの凶事があったのに加え、平城京では仏教勢力が大きくなりすぎて僧侶が政治に介入するようになり、政治的に問題が生じたためです。
長岡京での政治
しかし、長岡京に遷都が行われたものの、桓武天皇の側近であり、長岡京遷都で手腕を発揮した藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されるという事件が起こるなどして、凶事が続きました。
桓武天皇はさらに遷都を思い立ちました。和気清麻呂を中心に、長岡京よりもさらに北にある現在の京都府京都市に都を遷すことを決心されました。これが後の平安京となります。
西暦794年(延暦13年)に桓武天皇は都を平安京に遷都しました。
まとめ
大まかに歴代天皇と政権担当者は、以下の図でまとめていますので、整理してみましょう。