今回は、鎌倉時代に花開いた鎌倉文化の特色や作品名をわかりやすく解説していきたいと思います。
鎌倉文化が花開いた背景は知っておくべきです。鎌倉時代の大まかな時代の流れについては、別で紹介したので、鎌倉時代を大雑把に見てみたいというみなさんは次のコンテンツを参照してください。
また、鎌倉時代には新しい仏教が誕生しましたが、鎌倉新仏教については書くべきことが多いので、別でコンテンツを作成しました。こちらをご覧ください。
鎌倉文化の特色
鎌倉時代は武士が本格的に政治を行った時代とも言えます。その影響からか、武士の気風が作品に漂います。特色を見ていきましょう。
- 貴族の文化を基礎としている。
- 武士の気風にあった素朴で力強く写実的な側面を持っている。
- 武家に政治の中心が移ったことで、公家社会では歴史意識の高まりを見せる。
- 宋や元からの影響を強く持つ。
鎌倉文化はこれまでの貴族の文化の影響を受けつつも、写実的で素朴な側面を持った作品が数々登場します。
一方、公家社会ではこれまで培ってきた歴史に大きな関心が及びました。
これらを下支えしたのが中国(チャイナ)の宋や元から輸入してきた文化です。朝廷や幕府などが公式的に国交を結んでいたわけではありませんが、主に仏教の勉強をした禅宗の僧や朱子学などの勉強をした留学生の手によって中国(チャイナ)の文化が日本に伝わりました。
鎌倉文化における建築物
東大寺南大門
東大寺は、皆さんもご存知の通り、奈良時代に建築されました。天平文化の時代ですね(天平文化の復習はこちら)。
東大寺南大門は東大寺の南にある正門です。東大寺南大門は暴風雨により平安時代の末期に滅失してしまいました。そのような頃、平安時代の末期には源平の合戦が始まりました(源平の合戦についてはこちら)。その際に近くにある興福寺なども含めて多くの建造物が破壊されてしまいました。
源平の合戦後に、後白河法皇の命により東大寺や興福寺の修復事業が行われます。朝廷からその責任者として任ぜられたのは、重源という僧でした。
東大寺の修復にはこの南大門も含まれていました。西暦1203年に南大門は完成しました。
東大寺南大門は大仏様と呼ばれる建築様式が用いられました。大仏様は南宋から輸入された建築様式でした。軽快で簡素な力強さを感じさせます。
円覚寺舎利殿
円覚寺は、元寇が終わったあたりの西暦1282年(弘安5年)に鎌倉幕府の8代目執権にあたる北条時宗の時代に、中国(チャイナ)の王朝である南宋より招いた無学祖元により開山されました。開山の目的は、元寇による殉死者を敵味方なく平等に弔うためであり、禅宗を広げていきたいという意志であり、国を守ることでした。
円覚寺の中にお釈迦さまの歯(仏舎利)を納める建造物を作りました。これが舎利殿です。円覚寺舎利殿は禅宗様と呼ばれる建築様式で建てられました。これも鎌倉時代に南宋から伝わった建築様式です。ただ、円覚寺舎利殿自体は室町時代になって完成したものなのでその点においては注意が必要ですが、円覚寺舎利殿が東大寺南大門の大仏様との比較において教科書や参考書で紹介されることが多いため、ここで紹介しました。
鎌倉文化における彫刻
鎌倉文化の彫刻の作品を紹介したいと思います。
いずれも写実性があり、躍動感に富んでいるという特徴を持っています。
東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶ら)
まずは東大寺の南大門にある金剛力士像です。
源平の合戦後に、後白河法皇の命により東大寺や興福寺の修復事業が行われ、これを源頼朝が引き継ぎます。源頼朝が東大寺の復興計画の中で彫刻家に選んだのが運慶などの一派でした。
特に有名なものが、運慶と快慶が作った東大寺南大門金剛力士像です。筋肉や表情がとても写実的で力強いですね。マッチョマンですね。この彫刻は寄木造と言って、たくさんの木を切ってきて繋ぎ合わせて作られたものです。東大寺南大門の向かって左側にある金剛力士像が阿行像。口が開いていますね。宇宙の始まりを表現していると言われています。一方、右側にあるのが吽行像。こちらは宇宙の完成を表現していると言われています。高さはだいたい8.4メートルぐらいあります。実物を見に行くと見上げるような高さです。
その他の彫刻
他にも有名どころとしては、以下のような彫刻があります。それぞれは、Googleなどの検索エンジンで画像を検索することをオススメします。
- 東大寺僧形八幡神像(快慶の作品)
- 興福寺無著・世親像(運慶らの作品)
いずれの作品もとても写実的で力強い雰囲気の彫刻です。
本当は彫刻や絵画は実物を見るのが一番なのですが、文字面だけを追いかけるのではなくて、写真で作品を鑑賞することをぜひオススメしたいです。
鎌倉文化における文学作品
次に文学作品を紹介しましょう。
随筆
鎌倉文化期における随筆文学は以下の2つの作品が有名です。
ちなみに…ですが、
- 清少納言「枕草子」
- 鴨長明「方丈記」
- 兼好法師「徒然草」
の3作品は、日本の古文の三代随筆と呼ばれています。大学入試の日本史や古文の文学史の問題で出題されることがありますので、覚えておくようにしましょう。
鴨長明や兼好法師がこれらの作品を書いた背景には、争乱の世の中でいつ生活が不安定になるのか分からないといった不安が広がっていたことを忘れてはなりません。
鴨長明「方丈記」
鴨長明が書いた「方丈記」について紹介しましょう。
「方丈記」は高校の国語の教科書にも出てくるほど有名な作品ですね。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。…
「方丈記」の冒頭より
簡単に意味をとるとこのような感じになると思います。
流れていく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は刻々と流れていくのでもとの水ではありません。流れがよどんでいるところに浮かぶ水の泡が一方では消えたかと思うとまた一方ではできるように、いつまでもそのままとどまっている状態で存在することはありません。世の中に存在する人と住まいもまた同じようなものです。…
世の中は常に移り変わっていくということです。生まれた人はやがて死んでいくのは何だか残酷な感じもしますが、これは世の真実ですよね。世の中は常ではないということを「無常感」と言います。「方丈記」は無常感がにじみ出た随筆です。
中学生や高校生の皆さんにはあまり馴染みを感じないかもしれませんが、大人になってもう一度この文章を読んでみるととても味わい深いものになります。文学ってそういうものだと思います。
兼好法師「徒然草」
続いて、兼好法師の「徒然草」を紹介しましょう。
つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
「徒然」というのは重要な古文単語として高校入試や大学入試でもよく出題される単語ですが、「することもなく手持ちぶさただ。 所在ない。」という意味です。兼好法師が自由気ままに書いた随筆集といった感じです。ただ、ここでも仏教的な無常感を感じさせる作風ではあります。
「徒然草」は現代人である私たちにもとても参考になる記述が多く、今でもいろいろな人が徒然草の解説をわかりやすく解説してくれる本が多く出ています。
代々木ゼミナールや東進ハイスクールで一世を風靡した古文のマドンナこと荻野文子先生の解説は中学生や高校生の皆さんにもわかりやすい解説だと思います。
軍記物
武士の時代になってきたので、武士が登場する作品が登場します。
「平家物語」
この作品は中学校の国語の教科書にも載っているぐらい有名な作品ですよね。有名な冒頭の部分は学校でも暗記させられる人も多いと思います。源平合戦が舞台の作品です。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
『平家物語』第一巻「祇園精舎」より
この作品が特徴的なのは、どちらかというと勝者である源氏よりも敗者である平氏側に同情的な作品だというところです。冒頭に書かれているのは、朝廷の中でも大きな権力を握っていた平氏ですら必ず衰えていくというこちらも「無常感」が伝わってくる作品です。
この作品は盲目の琵琶法師という人たちが琵琶の伴奏をつけて弾き語りをして広く全国に広がり親しまれていきました。
その他の軍記物
他にも、保元の乱を描いた「保元物語」や平治の乱を描いた「平治物語」などがあります。
和歌
続いて和歌についても紹介しましょう。
後鳥羽天皇の勅命で藤原定家が編纂した「新古今和歌集」
まずは勅撰和歌集の紹介です。勅撰和歌集というのは、天皇の命によって作られた和歌集のことを言います。今回紹介する「新古今和歌集」も勅撰和歌集の1種です。以前学習したところで言えば、国風文化のところで出てきた「古今和歌集」も勅撰和歌集の1つでした(くわしくは国風文化の説明で)。
さて、「新古今和歌集」は、朝廷の権威を立て直そうと尽力された後鳥羽天皇の名により作られた和歌集です。実際に和歌を選定したのは、藤原定家です。しかし、後鳥羽天皇は和歌の妙手でもあります。したがって、後鳥羽天皇が「新古今和歌集」に収録する和歌の選定に大きく関わったと言われています。
藤原定家の和歌はとても有名で、教科書にも紹介されています。
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
「新古今和歌集」藤原定家 秋上・363
また、平安末期に僧であり名うての歌人でもあった西行法師の和歌も収録されています。
心なき 身にもあはれ 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ
「新古今和歌集」西行法師 秋上・362
鎌倉幕府の征夷大将軍の源実朝が編纂した歌集「金槐和歌集」
鎌倉幕府の3代目の征夷大将軍といえば源実朝でしたね。源実朝は源頼朝の息子でした。源実朝は和歌の妙手としても知られていました。後の俳人でもある松尾芭蕉からも先ほど紹介した西行と並んで素晴らしい歌人であると評価されています。
源実朝は「金槐和歌集」という歌集をまとめました。
国語の教科書でも紹介されている2つの和歌を紹介したいと思います。
山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも
「金槐和歌集」より源実朝の和歌
君にふた心 わがあらめやも
大海の 磯もとどろに 寄する浪
われて砕けて 裂けて散るかも
源実朝は、2代目将軍の源頼家の息子の公暁により暗殺され、源氏直系の征夷大将軍を血筋は途絶えることになりました。これを機に、後鳥羽上皇は時の執権であった北条義時を討伐する院宣を発せられ、承久の乱(承久の変)へと繋がっていくのです。
天皇のあるべき姿を順徳天皇がまとめた「禁秘抄」
このように見ると、鎌倉文化は武士が文化の担い手になり始め、力強いイメージが持たれがちですが、一方の朝廷側も貴重なものを残しています。
朝廷で行われるさまざまな儀式や伝統などが第84代の順徳天皇によってまとめられました(承久の乱(承久の変)の後、佐渡島に配流された)。これが「禁秘抄」という書物です。「禁秘抄」は中学校の教科書には登場しませんが、高校の日本史の教科書には登場します。「禁秘抄」には天皇の心構えや宮中祭祀や宮中の日常や行事、天皇が行うべき学問や芸術について述べられています。これは後の天皇陛下も模範にされたと言われています。