【中学歴史・国史(日本史)】出雲の国譲り神話をわかりやすく

日本の肇国を知ろう 記紀における日本の肇国
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須佐之男命(すさのおのみこと)から数えて6世孫にあたる大国主神(おおくにぬしのかみ)が「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を完成させて国作りを終えた後、高天原(たかまがはら)に住む八百万(やおよろず)の神はこれをどのように見られていたのでしょうか?

今回は、高天原に住んでいらっしゃる神様たちがどう対応なさるのか、そして「出雲国譲り」の神話を概観したいと思います。

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葦原中国は天忍穂耳命がしらす国である!

高天原(たかまがはら)を治める天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、次のように仰いました。

「豊葦原之千秋長五百秋之水穂(とよあしはらのちあきのながいおあきのみずほ)の国は、我が子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)がしらすべき国である。」

「豊葦原之千秋長五百秋之水穂(とよあしはらのちあきのながいおあきのみずほ)の国」というのは、葦原中国(あしはらのなかつくに)のことを指します。「素晴らしい地上世界」という感じになります。

正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)は、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)のことです。天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(うけい)によってお生まれになった男神です。

最後に、「しらす国」という言葉です。「知らす」というのは「治める」という意味です。

要するに、

「地上世界は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治めなさい」

と天照大御神は仰ったのです。

なお、「しらす」という言葉の意味については、くわしくはこちらのコンテンツをご覧ください。

しかし、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は、葦原中国(あしはらのなかつくに)が騒がしいことに気づかれ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に報告なさいました。

高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)は八百万の神々を集めさせ、知恵の神様である思金神(おもいかねのかみ)に思案させて次のように仰いました。

「この葦原中国は、我が子の知らす国と委任した国である。しかしこの国には荒ぶる国つ神が多い。どの神を遣わせて荒ぶる神を説得させるべきか?」

神様を派遣して説得する作戦に出ました。

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高天原からの派遣神その1 天菩比神の派遣

まず高天原からは、天菩比神(あめのほひのかみ)を派遣しました。天菩比神(あめのほひのかみ)は、天照大御神と須佐之男命の誓約(うけい)によって生まれた天之菩卑能命(あめのほひのみこと)のことです。

しかし、大国主神に媚びへつらってしまい、3年経ってもついに戻ることはありませんでした。

高天原からの派遣神その2 天若日子の派遣

高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、再び知恵の神様である思金神(おもいかねのかみ)にお尋ねになりました。

天若日子(あめのわかひこ)を遣わそう。」

天照大御神は天若日子(あめのわかひこ)に弓と矢を賜い、葦原中国(あしはらのなかつくに)に派遣しました。

しかし、天若日子(あめのわかひこ)は帰ってきませんでした。大国主神の娘の下照比売(したでるひめ)と結婚して、葦原中国(あしはらのなかつくに)を自分のものにしてしまおうと企み始めました。こうして8年の歳月が経ってしまいました。

これに困った高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、鳴女(なきめ)という雉(きじ)を天若日子を派遣することに決めました。

「どうして8年も連絡をよこさないんだ!本来の目的は葦原中国(あしはらのなかつくに)にいる神々を説得して従わせるために遣わせたのだろう。」

しかし、天若日子(あめのわかひこ)は、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、天照大御神から賜った弓と矢で鳴女(なきめ)を射殺してしまったのです。鳴女(なきめ)を貫通した矢は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)のところに戻ってきました。その矢が天若日子(あめのわかひこ)に授けた矢だったことに気づいた高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は、

「もし天若日子(あめのわかひこ)が命令に背かず、悪しき神を射た矢が届いたのであれば、天若日子(あめのわかひこ)にはあたるな!もし邪心があったならば、天若日子(あめのわかひこ)はこの矢にあたって死ね!」

と仰せになって、矢を葦原中国(あしはらのなかつくに)にお下しになりました。

そうしたら眠っていた天若日子(あめのわかひこ)にあたって死んでしまいました。

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高天原からの派遣神その3 建御雷神の派遣

2度も失敗したので、再び使者を派遣することになりました。

思金神(おもいかねのかみ)や諸々の神様の提案があった後、派遣されたのは伊耶那美神(いざなみのみこと)が神避(かむさ)りあそばされた際に伊耶那岐神(いざなぎのかみ)から成った建御雷神(たけみかづちのかみ)でした。

建御雷神(たけみかづちのかみ)は天鳥船神(あめのとりふねのかみ)とともに、出雲の稲佐浜(いなさはま)に降り立ちました。そして、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き、刀を突き立ててその刃先にあぐらをかいて、大国主神(おおくにぬしのかみ)に対して尋ねます。

「汝(なんじ)がうしはける葦原中国(あしはらのなかつくに)は、天照大御神の御子が知らす国であると任命された。汝の考えはいかがか?」

用語の解説をしておきます。「うしはける」とは領有するということです。

ここで登場している「しらす」と「うしはく」の言葉の意味については、別で解説をしています。

さて、この問いかけに対して、大国主神(おおくにぬしのかみ)は独りではお決めになりません。大国主神の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)に尋ねました。事代主神(ことしろぬしのかみ)はOKを出しました。しかし、大国主神の子でもう1人だけ国譲りについて意見を仰った神がいらっしゃいました。それが建御名方神(たけみなかたのかみ)です。建御名方神(たけみなかたのかみ)は最初は反対しました。そこで、建御雷神(たけみかづちのかみ)と力比べをすることにしました。すると、建御雷神(たけみかづちのかみ)の力に命の危険を感じた建御雷神(たけみかづちのかみ)は信濃国(しなののくに)つまり現在の長野県まで逃げます。建御雷神(たけみかづちのかみ)は信濃国(しなののくに)まで追いかけてきました。建御名方神(たけみなかたのかみ)は建御雷神(たけみかづちのかみ)にこのように申し上げました。

「どうか私を殺さないでください。信濃国をもう動かないことにします。また、父の大国主神(おおくにぬしのかみ)や事代主神(ことしろぬしのかみ)の言うことにも背きません。葦原中国(あしはらのなかつくに)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御子の命ずるままに献上します。」

あとは大国主神(おおくにぬしのかみ)からのご返答です。

「私も背くつもりはありません。ただ、私の住み処として、大地のソコまで宮柱(みやばしら)が届き、高天原(たかまがはら)まで千木(ちぎ)が高くそびえ立つほどの大きく立派な神殿を作ってほしい。そうすれば私は引退して身を隠します。これからは事代主神(ことしろぬしのかみ)が神々の先頭に立ち、神々を統率すればそれに背くこともありません。」

大国主神(おおくにぬしのかみ)が仰っていた宮殿こそが出雲大社(いずもたいしゃ)です。

建御雷神(たけみかづちのかみ)は高天原(たかまがはら)に戻り、葦原中国(あしはらのなかつくに)を説得して平定した様子を報告しました。このように「出雲の国譲り」は終わりました。

いよいよ天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)が地上世界に降臨されます。その際に日本の統治方法が天照大御神(あまてらすおおみかみ)によって明らかにされます。「古事記」「日本書紀」の物語のクライマックスの1つが次回のお話です。

 

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