【中学歴史】鎌倉新仏教をわかりやすく解説します!

鎌倉時代 歴史
鎌倉時代
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鎌倉時代になると、より一般の庶民が信仰しやすい仏教が日本に広がってきました。これを鎌倉仏教とか鎌倉新仏教と言ったりします。

今回は、鎌倉時代までの仏教の歴史の復習を行った上で、鎌倉新仏教の特色をわかりやすく解説した後、それぞれの宗派の特色を概観していきたいと思います。

試験対策としては、一番下の表を暗記しておけば大丈夫ですが、それぞれがどのような教えなのかをここでは簡単に解説してみることにします。

なお、仏教以外の鎌倉文化の内容については以下のコンテンツを参照してください。

鎌倉文化について分かりやすくまとめてみました

また、鎌倉時代の全体の大まかな歴史の流れについては、以下のコンテンツがオススメです。

鎌倉時代の流れをわかりやすく解説しました
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鎌倉時代までの仏教の歴史

仏教は紀元前5世紀にインドで誕生しました。

仏教のおこりを分かりやすく解説しました

その後、中国(チャイナ)や朝鮮半島を経て、日本に伝来しました。仏教が日本に伝来した際には、これを受けるべきかどうかで国を二分した議論となりました。

結果として仏教を受け入れることになり、聖徳太子が仏教の思想をまとめます。やがて日本には多くの寺院が建立されるようになりました。

奈良時代になると、仏教の力で国の政治を安定させようと考えられるようになりました。その代表格が聖武天皇でした。聖武天皇は東大寺を建立します。

平安時代になると、寺院が強い力を持って政治に影響力が強く及ぶようになると、これを嫌った桓武天皇が都を平安京に遷しました。ここで、唐に留学して帰国してきた最澄空海がそれぞれ天台宗真言宗を開き、仏教の発展に大きな影響力を与えました。

平安時代の中期になると、治安が悪化したり疫病が流行ったりする中で末法思想が広がりました。そこでより個人の救済を目的とした浄土信仰が流行しました。

一方で、比叡山にあった延暦寺は仏教を学べる寺院として成長し、やがて政治にも影響力を与える存在にまでなりました。院政の時代には白河上皇が思いどおりにならない存在として延暦寺の僧兵のことを述べています。

こういった状況の中で鎌倉時代に入ると、仏教はどのように変容していったのでしょうか?これを次に見ていくことにします。

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鎌倉新仏教の特色

天災や飢饉が起こったり末法思想が拡がると人々は不安になってきます。仏教の力でもっと庶民を救うべきではないかという意見が出るようになります。

これまでの仏教は学問的で困難な修行なものが多く、庶民にはとっつきにくいものでした。そのような中、鎌倉時代になると次のような特徴を持つ仏教の宗派が登場しました。

  1. 易行いぎょう…難しく厳しい修行を必要としない。
  2. 選択せんじゃく…救いの方法を1つ選ぶ(念仏を唱える、題目を唱える、座禅を組む)
  3. 専修せんじゅ…選んだ救いの方法に打ち込む

仏教が身近なものになります。やっぱりとっつきやすくした方が信仰も拡がりやすいわけです。

ここからは系統別に仏教の特徴を見ていくことにしましょう。

浄土教系

浄土宗: 法然により開祖

浄土教系の教えは、平安時代の中期頃から起こり始めた浄土信仰から発展していきます。

これを切り開いていったのが法然ほうねんです。法然は比叡山の延暦寺で仏教を学びました。しかし難しいお経の研究や厳しい戒律を守っていたとしても庶民は救われないのではないかと考えました。そのような中で浄土教と出会います。

  • これだけ戒律を守っても救われないのだからもはや厳しい修行をしても人々は救われないのではないか!
  • 阿弥陀仏という仏様にお願いをして極楽浄土(仏教の教えが行き渡った世界)の世界に導いてもらう(往生)ことで人々は救われるのではないだろうか!

これが浄土信仰の簡単な説明です。

法然は念仏を唱えれば往生できると言います。これを称名念仏と言います。念仏とは南無阿弥陀仏なむあみだぶつと言います。南無阿弥陀仏の「南無」というのは「お任せします」とか「心から従います」という意味。つまり、「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に全てをお任せします」という意味です。人間の力によるのではなく、阿弥陀仏の本願(願い)に頼って極楽浄土に往生できるという考え方を他力本願たりきほんがんと言います。

法然はこういう教えに出会って、やがて比叡山を降りて信仰を普及することに力を注ぐようになりました。ちなみにですが、法然は比叡山で浄土信仰を学びました。なぜそのようなことができるのかというと、比叡山はいろいろな仏教の考え方を勉強できたからです(くわしい説明は最澄と空海のコンテンツに載せています)。

このような教えは、昔からあった仏教勢力から猛反発を喰らいます。昔からあった仏教勢力から見れば厳しい修行をしているボクらはどうなるのだ!ということになります。胡散臭いと思いますよね。彼らは浄土教に対して攻撃を始めます。法然は土佐国に流されました。

しかし法然の考え方は庶民に支持されます。信者の中には女性の姿もありました。

浄土真宗: 親鸞により開祖

続いては親鸞しんらんについて見ていきます。漢字が難しいので、デカく書いておきましょう。

親鸞

親鸞も法然と同様に比叡山の延暦寺で仏教を学んでいました。しかし親鸞も比叡山を降り、法然のところに行き弟子となりました。法然と同様、昔からあった仏教勢力から猛反発を喰らい、やがて越後えちご国(現在の新潟県)に配流されました。

親鸞は死ぬまで法然の弟子を自認していました。自らが新しい教団を開いていこう!と積極的に考えていたわけではありませんでした。しかし親鸞の弟子たちが教団化をしていき、浄土真宗の礎を築いていきます。親鸞は法然と同様に、念仏を唱えれば極楽浄土に往生できると説きましたが、阿弥陀如来への信心をより徹底させます。信心の気持ちすら阿弥陀如来から与えられたものであり、念仏を唱える行為は阿弥陀如来への感謝の言葉であると説きました。

親鸞は「善人よりも罪深い悪人こそ救われる」と説きました。親鸞の弟子の唯円が「歎異抄たんにしょう」という書物に次のような言葉を残しています。

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

ここで言っている「悪人」とは犯罪者のような「悪事をはたらく人」を意味しているわけではありません。自分が煩悩ぼんのうを捨てきれない者(凡夫ぼんぷという)であることを自覚している人のことを指します。煩悩というのは、人が生きる時に感じる苦しみの原因になるものを言います。こだわりと言ってもよいですね。何かにこだわると物事の本質が見えてこなくなるものです。自分のことばかりを気にして周りのことが見えなくなることで結果として自分が苦しむことになる。「悪人」とはそういう自分を自覚している人のこと。自分の力でそれを気づくのは難しく、阿弥陀如来の働きかけによって自分がそんな人間であることに気付かされていく。念仏を唱えるだけでなく阿弥陀如来への信心が大切なのだと説くわけです。これを悪人正機説と言います。

ちなみに、人間は煩悩を捨てきれない存在でありそれを自覚して過ごしていこうという話は、聖徳太子の「十七条の憲法」の第10条にも書かれています。

十にいわく、忿いかりいかりて、人のたがうをいからざれ。人みな心あり、心おのおのるところあり。彼是かれぜとすればすなわわれとし、われとすれば則ち彼は非とす。我必ずしもひじりあらず。彼必ずしも愚に非ず。共に凡夫ぼんぷのみ。是非ぜひことわりいずくんぞ能く定むべき。相共あいとも賢愚けんぐなること、みみがねはしなきがごとし。ここもちて、の人いかるといえども、かえって我があやまちを恐れよ。我ひとり得たりといえども、しゅうしたがいて同じくおこなえ。
——
10番目に訓示します。

心の中でモヤモヤしたいきどおりをなくし、それを表情に出すようなことはしないようにして、人が一人一人異なる価値観を持っていることに怒ってはいけません。そもそも、人にはみんな心があり、人はそれぞれの価値観に基づいて行動するものです。だから、他人が正しいと思っても自分は正しくないと思ったり、逆に自分が正しいと思っても他人は正しくないと思う場合があります。自分が必ず正しいというわけではありませんし、他人が必ずしもバカだというわけではありません。両方とも普通の人なのです。よいか悪いかという判断はよくよく考えて決めるべきなのです。自分も他人も共に立派な存在であるとともにバカな存在であることは、金輪かなわはしがないのと同じようなもの(イアリングのような物を想像しよう)です。こういうわけで、目の前の人が怒りの表情をふくませていたら、まずは自分が間違っているのではないかと考えてみなさい。また、自分一人で「コレだ!」と思ったとしても、みんなの意見を聞きながら歩調を合わせて行動するようにしなさい。

聖徳太子「十七条の憲法」の第10条より
十七条の憲法の内容を全文解説してみました!

時宗: 一遍により開祖

最後に時宗について見ていきます。開祖は一遍です。一遍は比叡山の延暦寺で仏教を学んでいません。

一遍も念仏の教えを広げていくのですが、「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札と呼ばれるお札を配り、踊念仏を行って布教を行っていきました。

禅宗系

禅宗は、雑念を取り払って精神を安定させる坐禅という修行方法を中心に据えた宗派の総称です。

浄土教系の宗派とは異なり、禅宗は自力での悟りを目指します。禅宗はどんな凡夫であってもその人の心の中には仏になる可能性を秘めていると言います。ここまでは最澄が唱えた天台宗でも説かれています。禅宗は仏教を開祖したお釈迦さまは坐禅によって悟りを開かれましたが、これを追体験することで仏になる道を開こうとします。

禅宗は達磨大師というインドの僧が中国(チャイナ)で開かれたと言います。後に栄西道元が中国(チャイナ)に渡り、禅宗の教えを日本に伝えました。

禅宗は自己鍛錬を重んずる武士たちの気風にあったため、鎌倉幕府からも保護を受けました。

また、禅宗の僧たちは禅宗の教えだけでなく、宋銭を日本に持ち込む役割も果たします。

臨済宗: 栄西により開祖

禅宗の一派、臨済宗栄西がもたらしました。栄西はこれまた比叡山の延暦寺で修行をした後に宋へ渡り、帰国した後に臨済宗を開きます。

臨済宗の特徴は、坐禅をしながらも公案を重視します。公案というのは、師匠から出された「なぞなぞ」に対して答えを考えていくものです。

臨済宗は、茶道や華道や造園などにも影響を与えます。宗祖の栄西はお茶を中国(チャイナ)から伝えた人物としても知られています。

曹洞宗: 道元により開祖

道元もまた比叡山の延暦寺で仏教を学びましたが、やがて宋へ留学し、帰国してから曹洞宗を開きます。

同じ禅宗でも、道元が開いた曹洞宗はちょっとだけ臨済宗とは異なります。

それは、公案ではなく、ただひたすら坐禅を行うことを勧めます。ひたすら坐禅を行っていると、身も心も執着から解放された境地に至ることができるというのです。これを只管打坐と言います。浄土宗系の人たちが説いていた成仏の不可能を否定し、あくまで自力で禅に打ち込むことで悟りが開けると説きました。

日蓮宗

実は日蓮もまた最初は比叡山の延暦寺で仏教を学びました。その中で「法華経ほけきょう」というお経を重視すべきだと説くようになりました。

題目である「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」を唱えましょうと日蓮は説きます。「南無」は「心から従います」ということ、「妙法蓮華経」は「法華経」を意味します。

人々が正しい教え(法華経)を信ずれば国家は安定すると説きます。日蓮は法華経を信じなければ外国が日本に攻めてくることを予言します。

汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ 速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ 然レバ則チ三界ハ仏国也 仏国其レ衰ヘンヤ 十方ハ悉ク宝土也 宝土何ゾ壊レンヤ 国ニ衰微ナク土ニ破壊ナクンバ 身ハ是レ安全ニシテ心ハ是レ禅定ナラン 此ノ詞、此ノ言、信ズベク崇ムベシ

日蓮「立正安国論」より

これを鎌倉幕府に言いますが、幕府は相手にしません。そうこうしているうちに、実際にモンゴル人勢力が日本に攻めてきました。蒙古襲来とか元寇とか呼ばれるものですね。

蒙古襲来(元寇)についてわかりやすく解説してみました
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鎌倉新仏教のまとめ

鎌倉新仏教、コレだけ暗記!

試験対策的には下の表を丸暗記しておけばよいです。ただ、こんなものを丸暗記しても面白くないですよ。だから最初に説明を加えました。

宗派開祖特色中心寺院
浄土宗法然念仏(南無阿弥陀仏)をひたすら唱える知恩院
浄土真宗
(一向宗)
親鸞念仏(南無阿弥陀仏)をひたすら唱える本願寺
時宗一遍踊念仏(踊りながら念仏を唱える)を行う清浄光寺
日蓮宗
(法華宗)
日蓮法華経が第一!
題目(南無妙法蓮華経)を唱える
久遠寺
臨済宗栄西公案(禅問答)をしながら座禅を組む建仁寺
曹洞宗道元ただひたすら座禅を組む永平寺
鎌倉新仏教の一覧

鎌倉新仏教が登場した順番

最後に、今までは宗派別に特徴を見てきましたが、歴史は腐っても「時系列」が大切です。最後に時系列順に鎌倉新仏教が登場した順番についてまとめてみたいと思います。

  1. 法然(浄土宗)
  2. 栄西(臨済宗)
  3. 親鸞(浄土真宗)
  4. 道元(曹洞宗)
  5. 日蓮(日蓮宗)
  6. 一遍(時宗)

「ほう」「えい」「しん」「どう」「に」(ほん)「いち」と覚えておけばよいと思います。「「ほうえい」という神童は日本一」なんですよ。こんな感じで覚えておくとよいです。

法然と栄西は鎌倉時代が始まった頃、親鸞と道元は源氏が滅亡して北条氏が実権を握り始めた頃、日蓮が元寇の前ぐらい、一遍は元寇からその後ぐらいな時代感覚です。

 

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