【中学歴史】源平の合戦と平氏の滅亡をわかりやすく解説

平安時代 中学歴史
平安時代
この記事は約8分で読めます。
スポンサーリンク

これまで平安時代は朝廷の貴族が政治の中心にいました。しかし、争いごとを解決するのに武士の力が必要となり、やがて政治の表舞台に登場しました。それが平氏へいしでした。特に平清盛たいらのきよもり西暦1167年(仁安2年)に太政大臣だいじょうだいじんに任命され、まさに絶頂をむかえていました(平氏政権の特徴についての解説)。

こうなると、他の貴族や平氏に仕えていない武士にとっては面白くありません。そして、後白河上皇ごしらかわじょうこうとも次第に対立を深めるようになりました。

平氏政権はこの後に滅びていくのですが、ライバルの源氏がどのように登場して平氏を滅ぼしていったのかをわかりやすく解説していきます。

スポンサーリンク

平清盛、天皇の外戚になる

後白河上皇との対立が決定的になったのは、平清盛の娘である徳子を第80代の高倉天皇の皇后とした点です。皇后とは天皇の正妻のことを言います。これは、藤原氏が女子を天皇に嫁がせたのと同じ構図だということに気づいてほしいです(摂関政治についての解説)。

西暦1179年(治承3年)、平清盛は後白河上皇を幽閉ゆうへい(とじこめる)し、院政を停止させました。さらに翌年、高倉天皇に退位を迫りました。その後、徳子が生んだ生後1歳3ヶ月の親王しんのうを即位させました。第81代の安徳あんとく天皇の誕生です。いよいよ「平氏の天皇」が誕生したことを意味します。

平氏は絶頂をむかえるものの、後白河上皇をはじめとして多くの人たちの不満がたまりました。

源平の合戦(治承・寿永の乱)

以仁王の令旨

西暦1180年(治承4年)、後白河上皇の皇子の以仁王もちひとおうが平氏打倒の令旨りょうじ(皇族が出す命令のこと)を出しました。

これに呼応したのが、畿内きないに基盤を持っていた平氏のライバルの源氏の一人、源頼政みなもとのよりまさでした。

反乱は事前にもれてしまい、すぐに鎮圧されて以仁王と源頼政は殺されてしまいました。

しかしこの令旨によって平氏打倒の気運が高まったのです。

源頼朝の挙兵

西暦1159年(平治元年)に平治の乱で平清盛に敗れた源義朝みなもとのよしとも嫡男ちゃくなんである源頼朝みなもとのよりともが関東地方の武士団を率いて挙兵をしました(石橋山の戦い)。この戦いで源頼朝は敗れたものの、鎌倉に入り、政治体制を整えます。

武士の棟梁の子どもであれば、平治の乱で負けたら通常であれば処刑されます。しかし、平清盛の継母けいぼ(血のつながっていない母親のこと)であった池禅尼いけのぜんにの懇願で、源頼朝は平清盛に命を救われ、伊豆(現在の静岡県)に流されました。

実はもう1人、この時に命を救われた子どもがいました。それが源義経みなもとのよしつねです。当時は牛若丸うしわかまると呼ばれていました。牛若丸と側近の弁慶が京都の五条大橋で出会った時の話はあまりに有名ですね。戦前には唱歌にもなっていました。ぜひYoutubeなどで「牛若丸」と検索して聞いてみてください。

京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる

牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く

前やうしろや右左 ここと思えば またあちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった

文部省唱歌(1年)「牛若丸」作詞・作曲者は不明

源頼朝が挙兵をした頃、源義経は奥州藤原氏のもとにいました。兄の頼朝が挙兵をしたことを聞いて、源義経は頼朝のもとへ向かいました。源頼朝は「富士川の戦い」で平氏に勝利しました。源頼朝は鎌倉に残り、早くも戦いの後の体制づくりを始めます(西暦1180年に侍所さむらいどころの設置)。

平清盛の死、後鳥羽天皇の即位

一方、平氏にとっては大きな事件が次々に起こります。西暦1181年(治承5年)に、高倉天皇が崩御ほうぎょ(天皇が亡くなること)しました。安徳天皇はまだ3歳であったため、後白河上皇の院政を復活せざるを得ません。さらに、平氏を率いてきた平清盛が死去します。平氏の政治的立場も少しずつ怪しくなってきました。安徳天皇が即位した後、元号を「養和」と改元をするものの(代始改元だいしかいげん)、飢饉ききんが起こり、戦乱もあり、庶民は生活に不安を持つようになりました(養和の飢饉)。すぐに元号は「寿永じゅえい」と改められました(災異改元さいいかいげん)。

西暦1183年(寿永2年)源頼朝の従兄弟いとこにあたる木曽義仲きそよしなか(源義仲)も挙兵し、北陸から京都に攻め入りました。平氏は安徳天皇とともに三種の神器を奉じて京都を脱出しました。京都に天皇がいらっしゃらなくなってしまったため、後白河上皇は新たな天皇を即位させました。安徳天皇の異母弟いぼていで満3歳で即位した第82代の後鳥羽ごとば天皇です。後鳥羽天皇の即位は2つの点で異例中の異例でした。

  1. 皇位の証である三種の神器がない中で践祚せんそ(天皇の地位に就くこと)したこと
  2. 平氏が擁立した安徳天皇もご在位中であり、お二方の天皇が並立する状態であったこと

この段階で、源頼朝と源義仲は後白河上皇の命を受けて、打倒平氏を目指します。さらに、源頼朝には東国の支配権を約束しました。源頼朝と源義仲の2人が協力して打倒平氏を目指すかのように思われましたが、次第に仲が悪くなり、源頼朝は弟の源義経らを派遣して源義仲を討ちました。

源頼朝は関東に残って政治体制を整え、戦いの現場には源義経らがむかって活躍します。

スポンサーリンク

一の谷の戦い

源義経が「鵯越ひよどりごえさか落とし」という奇襲戦法を使った戦いとしても有名です。

平氏は瀬戸内海の海賊を率いて勢力を拡大してきたので、海での戦いは強かったのです。平氏は瀬戸内海に出て源氏の兵を待っていたのです(現在の神戸市須磨区)。平氏は背後に陸を背負っていました。しかも崖です。猪・鹿・兎・狐の他は通ったことのないという道しかなかったと「平家物語」には載っています。

源義経は絶対に攻撃してこないであろうという場所から奇襲攻撃を使いました。何と崖を馬に乗って降りてきたのです。平氏は驚きます。平氏の軍はたちまち混乱し、敗れてさらに西方に落ち延びていきました。

この戦いで活躍した源義経は後白河上皇に高く認められ、高い官職を与えられました。本来であれば喜ばしいことではありますが、源頼朝は怒りました。なぜ怒ったのでしょうか?それは別稿でお伝えします。

屋島の戦い

屋島やしまの戦いは、中学校の国語の教科書にも登場する那須与一が登場する戦いです。

平氏は本拠地を四国にある屋島に移しました。源氏はしばらくの間、攻め手を欠いた状態でした。それを打開したのが、大人気の源義経でした。源義経は四国にある屋島に兵を向けました。ここで様々なエピソードがあるのですが、有名なのが那須与一が登場する「扇の的」のお話です。

ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、 磯打つ波も高かりけり。舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。 沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。 いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。 これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。 いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」
と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、 扇も射よげにぞなつたりける。
 与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。 小兵といふぢやう、十二束三伏、弓はつよし、浦響くほど長鳴りして、 あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。 かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。 しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出したるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、 沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、 えびらをたたいてどよめきけり。

「平家物語」より

上の文章は那須与一という弓の名手が平氏の掲げた扇の的を射貫いた場面です。源氏も平氏も「お見事!」という感じになります。平氏の武者が踊っていたところに源義経がこれを射貫いてしまい、戦が始まってしまいました。その日のうちに決着はつかなかったのですが、結局、屋島の戦いで平氏は敗れ、平氏は九州の方へ落ち延びていきます。源氏の勝利です。

壇ノ浦の戦い

西暦1185年(元暦2年)3月に、ついに平氏は山口県にある壇ノ浦だんのうらで滅亡しました。これを壇ノ浦の戦いと言います。

この時、平氏の船にお乗りになっていた安徳天皇は母に抱かれながら入水され、崩御しました。安徳天皇は御年6歳。物心つかない頃から皇位に就き、今の感覚で言うと園児ぐらいの御歳に自決させられる。悲劇的な天皇と言えるでしょう。

さて、安徳天皇は三種の神器を持っておられました。三種の神器は「天皇が天皇であるあかし」としてとても重要なものです(天孫降臨神話てんそんこうりんしんわのコンテンツを参照)。源氏の兵は三種の神器を探しました。八咫鏡やたのかがみは重いので船に残っていました。八尺やさか勾玉まがたまは浜にうちあげられていたそうです。そして、草薙剣くさなぎのつるぎはついに見つかりませんでした。

これ、マズいですよね。

しかし大丈夫です。

三種の神器原本
八咫鏡伊勢神宮
八尺の勾玉皇居
草薙剣熱田神宮

勾玉がなくなるとさすがにマズかったのですが(原本だから)、天皇が持っている鏡と剣は形代かたしろと言って、御魂みたまの入ったレプリカみたいなものなのです。剣については「みたまうつし」を行って、形代を再び宮中でお守りすることになったのです。

これらの一連の戦いを、当時の元号をとって、「治承じしょう寿永じゅえいの乱」と言うことがあります。

この戦いで大活躍したのは源義経でしたが、源氏の棟梁の源頼朝と対立するようになります。この続きは別稿で記したいと思います。

 

タイトルとURLをコピーしました