今回は、日本がどのような考え方をもって肇国(ちょうこく)されたのか?を明確にしていきます。
こういうことが中学校や高校の教科書には習わないです。アメリカやフランスが建国の際にどのようなことを大切にしたのかは習うのに、自分の国である日本の肇国(ちょうこく)の理念については習わない。何かヘンですね。このサイトではそれを明らかにします。
後の初代天皇になられる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、九州南部の日向(ひむか)から現在の奈良県の橿原(かしはら)の地に宮をひらかれました。ここまでの流れのことを神武東征(じんむとうせい)と呼んでいます。
今回は日本国がどのような精神で肇国(ちょうこく)されたのかを見ていきたいと思います。
神倭伊波礼毘古命がなぜ東征を行ったのか?
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)はなぜ九州南部の日向(ひむか)から東征を行ったのでしょうか?それは、五瀬命(いつせのみこと)との会話から読み取ることができます。
「いったいどこに住めば、平和に天下を治めることができるのでしょうか?」
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は日本を我が物にしたくて東征を行うのではありません。人々の暮らしをよくしたくて東征を行ったのです。
最後にもう一度この問題を深掘りしたいと思います。
神倭伊波礼毘古命による「即位建都の詔」
「即位建都の詔」は、「日本書紀」に記述があります。
「日本書紀」は、もともとは漢字だらけなので、書き下しを行っております。書き下しは、松田雄一先生が主宰されている「国語WORKS」で頂いている資料及び説明などを参照しております。現代語訳は、川副武胤・佐伯有清「日本書紀」(中公新書)や竹田恒泰「日本の国史」(PHP研究所)なども参照しています。
書き下し文
夫(そ)れ大人(ひじり)の制(のり)を立つ。義(ことわり)必ず時に隨(したが)ふ。苟(いやし)くも民(おおみたから)に利(くぼさ)有(あ)らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)はむ。且当(まさ)に山林(やまはやし)を披(ひら)き拂(はらい)、宮室(みやおき)を經(おさめ)營(つく)りて、恭(かしこ)みて寶位(たかみくら)に臨みて、元元(おおみたから)を鎭(しむ)むべし。上(かみ)は乾靈(あまつかみ)の國(くに)を授(さず)けたまひし德(うつくしび)に答(こた)へ、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養(やしな)ひたまひし心を弘(ひろ)めむ。
然(しこう)して後(のち)に、六合(くにのうち)を兼ねて都(みやこ)を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや。觀(み)れば、夫(そ)の畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、蓋(けだ)し國(くに)の墺(くむ)區(しら)か。治(おさま)るべし。
現代語大意
聖人は制度を立てるものです。その道理は必ず時勢に従うものです。ですから、民(たみ)にとって利益になることであれば、どうして聖人が行うことに妨げが起こるのでしょうか。そこで、山林を切り拓いて皇居を造り、謹んで皇位に即(つ)いて、民を治めたいと思います。上は天つ神からお授けくださった徳に答え、下は邇邇芸命(ににぎのみこと)が養った御心を広めようと思います。その後、国をまとめて都を新しく作り、この世の中をみんながともに平和に暮らせる家族が集う家のようにすることはとても素晴らしいことではありませんか。見渡せば、畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は日本の真ん中にあるようなので、ここに都を定めよう。
解説
記紀編纂の背景
「古事記」や「日本書紀」を編纂され始めたのは、天武天皇(てんむてんのう)の御代です。
「古事記」は、「帝紀」や「旧記」の内容を稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦し、太安万侶(おおのやすまろ)が筆録して作られました。天地初発(てんちしょはつ)から推古天皇の御代までのできごとがまとめられました。西暦712年(和銅5年)に完成し、元明天皇(げんめいてんのう)に献上されました。日本語を漢字の音や調を用いて表記しているのが特徴的です。
「日本書紀」は、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)らが中心となって編纂されました。天地開闢(てんちかいびゃく)から持統天皇(じとうてんのう)の御代までのできごとが、事実の起こった順に年月を追って記す編年体(へんねんたい)という形式でまとめられました。西暦720年(養老4年)に完成し、元正天皇(げんしょうてんのう)に献上されました。
西暦663年に、日本は唐と新羅の連合軍と戦いました。これを白村江(はくすきのえ)の戦いと言います。日本はこの戦いに敗れました。一歩間違えれば日本は唐や新羅の属国になっていました。日本は天皇を中心として、国としてまとまらなければならない時期だったのです。
また、「古事記」の序文には次のようなことが書かれていました。「帝紀」や「旧辞」に書かれている内容の中には真実と異なるものもあり、また多くの偽りもありました。だから、ここでしっかりと国の歴史を歴史書にまとめなければ、国家組織のあり方がゆがんだものになってしまうおそれがありました。
こういった背景のもとで、「古事記」や「日本書紀」、2つまとめて「記紀」がまとめられました。
天皇を中心とした政治とは!?
日本には初代の神武天皇から今上陛下まで125代の天皇がいらっしゃいます。ごく一部の例外を除き、日本は常に天皇の存在が国の根幹にありました。
「日本書紀」の「即位建都の詔」には、
上は天つ神からお授けくださった徳に答え、下は邇邇芸命(ににぎのみこと)が養った御心を広めようと思います。
とあります。
これをもう少し具体的に踏み込んでみます。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、御孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に、
「此(こ)の豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)は、汝(なんじ)が知らさむ国ぞと言(こと)依(よ)し賜(たま)ふ。故(かれ)、命(みこと)の随(まにまに)に天降(あまくだ)るべし」
「古事記」の天孫降臨の場面。
と仰いました。
日本は、天照大御神の子孫が「知らす」国であるということなのです。

では、「知らす」国とはどのような国なのでしょうか。「知らす」というのはこんな意味です。
国の様子を知り、国民に寄り添い、世が治まることを願い祈る。権力や財力ではなく、「在り方」を体現することで影響を及ぼす。
天皇は民を我が物として奴隷のように支配するのではありません。国民を大御宝(おおみたから)として大切にして国の平和を願う存在なのだということです。

「神武天皇はこのような国を作っていきます!」ということを宣言されているのです。
「八紘一宇」の精神
最後に、「即位建都の詔」で一番有名な部分について簡単な解説をします。
八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(せ)むこと。
「日本書紀」の「即位建都の詔」より
ここには日本が目指すべき姿が書いてあるとされています。この部分は、国をまとめて都を新しく作り、この世の中をみんながともに平和に暮らせる家族が集う家のようにするという意味です。
神武天皇の東征は日向(ひむか)から始まりましたが、決して順調ではありませんでした。
そして、まだ日本列島全体が天皇を中心として一つにまとまっている状況ではありません。弥生時代の日本の様子はまさに戦乱の世であったことが分かっています。遺跡の発掘やチャイナ(中国)の歴史書から分かります。
戦乱の日本列島が1つにまとまってみんなで仲良く暮らせる国の姿を神武天皇はご覧になっていたのかもしれません。
日本の肇国(ちょうこく)について「日本書紀」の記述をそのまま西暦で計算すると、西暦紀元前660年になります。この1月1日が現在の暦でいうと2月11日にあたります。この日を元年とする暦のことを皇紀とか神武天皇紀元暦と言ったりします。
明治時代にこの日を国の誕生日として「紀元節(きげんせつ)」と名付けました。現在は、「建国記念の日」と言っています。
おわりに
以上を読めば、日本がどのような理想を持って肇国(ちょうこく)されたのかが明らかになったと思います。
私たちはこの国の理念を大切にしていきたいものだし、学校の教科書には存在しない日本の姿が浮き彫りになってきたと思います。ぜひこれからの学びに生かしていきましょう!